【読書】シェイクスピア『テンペスト』覚え書き(2007)
シェイクスピア『テンペスト』覚え書き(2007)
遠流の隠者プロスペローは、自らの復讐を成就すべく、魔術によって嵐を起こし、仇敵を術中に陥れます。ただ、この作品における復讐には、たとえば、おなじシェイクスピア作品「タイタス・アンドロニカス」にある、たぎるような憎悪と、むごたらしい惨劇という要素はありません。学問を愛し、すべてを操りうる魔力を会得したプロスペローは、この作品の中では「神」のごとき存在であり、舞台でいうなら「演出家」。(福田恆存は、岩波文庫の解題で、デミウルゴス=工匠、プラトンによれば、原型としてのイデアにのっとって素材から世界を形成する神。)懲らしめられる敵役たちとの間には圧倒的な力の差があり、プロスペローの復讐心というのも、痛々しい言葉であらわにされることはありません。娘ミランダに過去の不幸を物語るときさえ、どこか抑制のきいたトーンが印象的です。
自分の「テンペスト」との出会いについては、記憶が曖昧なのですが、本編を読むより先に、P・ミルワード著「シェイクスピア劇の名台詞」で、次の台詞を読んだのが最初だったと思います。ファーディナンドとミランダの婚約を許し、それを祝う仮面劇を妖精たちに演じさせた後の台詞です。
この台詞にも見えるように、プロスペローのたたずまいにはいつもある種の諦念が感じられます。ただそれは、平家物語の祇園精舎にあるような悲しみに浸された無常観ではなく、どこか明るく軽やかなもの。とても大きくこの世界をとらえているもので、それがこの劇全体を覆っている空気であり、わたしがこの作品を好きな理由でもあります。これは日本語のことになりますが、「あきらめる」はもともと「明らむ」で、「明るくさせる」「事情などをはっきりさせる、あきらかにする」という意味があるようです。
そう書いてから、英語ではどんな言葉があるのだろうと調べてみました。すると、give up、abandon、despairとネガティブな言葉に続いて、reconcileという言葉に遭遇しました。なんとこの言葉には、「運命・損失などを仕方のないものとして受け入れる」、という意味のほかに、主たる意味として、「人と人を和解させる」「人と事を調和させる」というものがあったのです。もとのラテン語は「修復させる」という意味で、いかにもプロスペローの諦念のあり方と「テンペスト」という作品にぴったりです。はかなきかりそめの世であっても、眠りにしめくくられるまでは現し身を生きる。人と人との関係を修復し、自分と世界との関係を修復し、自分の心の折り合いをつけるために、プロスペローは一度世界を撹拌し、渾沌をつくりだす必要があったのでしょう。それこそが「あらし テンペスト」でありました。
と、ここまではわたしが「テンペスト」全体から受ける印象のおおもとを探る形で書いてみましたが、これはあくまで、わたし自身の読みたい(欲望する)文脈によって読んだ結果です。というのは、自分でこのように読みながら、そこからはみ出してしまういくつかの気にかかることがあるからです。
たとえば、主要な二人の登場人物、エアリアルとキャリバンのことです。エアリアルはプロスペローによって、魔女シコラクスに閉じ込められた松の木から解放され、今はプロスペローの奴隷となって、自由放免の約束を胸に、プロスペローの命令を次々と遂行する空気の精。素早く失敗のない仕事ぶりから、プロスペローにかわいがられているようです。キャリバンは魔女シコラクスの息子で、プロスペローによって言葉をはじめ様々な教育を受けたのですが、その野蛮な性質のため、プロスペローから疎まれ、やはり魔法によって隷属させられています。プロスペローとこの二人の関係は、いわゆる「ポスト・コロニアル」の文脈によって語られる事が多いのです。
以下、ウィキペディアより。
ううむ。こうやってエアリアルやキャリバンの登場シーンを写していると、さっきの静かなプロスペローのイメージではなくなってきますね。遭遇した「他者」の自由を奪い、隷属させるプロスペローのプレッシャーは強大なもの。特に、キャリバンいじめは相当に激しい。キャリバンというキャラクターのほうも、下劣で乱暴で、時に卑屈に描き出されているし、果てはプロスペローの追い落としを狙うしたたかさも持ち合わせているので、ストレートに気の毒だと思えるように造型されてはいないのですが。支配者と先住民である被支配者の緊張関係は、観るものの心をざわつかせます。
ここでもう一つ、あっと思うような読み方をご紹介しましょう。「シェイクスピア『もの』語り」で松岡和子さんが、「ギヴ・アンド・テイクの島」とタイトルをつけて、「テンペスト」を論じています。
と松岡さんは言い、ここでは省きますが、あざやかにその具体例をあげていきます。松岡さんによれば、注目すべきは多くの場合その当事者たちが「対等でない」ということで、交換条件は、すぐさま、支配・被支配の関係に移行すると、いうことです。ここでは自由という精神・身体上のトータルな存在形態までがモノ化され、交換の対象になっている、絶海の孤島も、実は俗世と地続きなのだと言います。
4ページほどのエッセーで、だからどうした、と不消化な感もありますが、とてもおもしろい指摘です。絶海の孤島も俗世と地続き、というまとめにも異論はありません。前半で、プロスペローの諦念について、述べましたが、もちろんプロスペローは悟りきった隠者ではありません。自分の中にある復讐心を解放してやろうと意図しなければ、そもそも「あらし」を起こすはずがない。(さすれば芝居ははじまらない。)プロスペローは、エアリアルやキャリバンの自由も束縛していましたが、彼自身が、復讐心や怨恨という煩わしい感情による「囚われ人」でもあったのですね。ただ、「明らかに見通す」目を持っていたから、それに振り回され盲目になって、血なまぐさい結末になだれ込むことがなかった。だから「テンペスト」は苦しい悲劇ではなく、柔らかく光を放つロマンス劇なのです。
書けば書くほど、なんだかわからなくなってくるのが、やっぱりシェイクスピア。二面三面切ったとて、まだまだ語り尽くせません。きどった言葉で書いてはみましたが、正直な自分流の言葉遣いで書いてみると、「テンペスト」は、「あらしで一度すべてをひっ繰り返してチャラにして、気の済まないところは、気の済むようにして、やりすぎず適当なところで手を打って、も少し俗世で生きるために仕切り直す話」とでもなるでしょうか。
最後に仕切り直したラストのプロスペローの台詞と、福田恆存氏の美しい読解を引用します。
過去に読んでおもしろかった関連本はこちら。
★シェイクスピアの世界 創元社 知の再発見双書34
★シェイクスピア劇の名台詞 P・ミルワード 講談社学術文庫
★シェイクスピアを観る 大場建治 岩波新書
★快読シェイクスピア 河合隼雄 松岡和子
★シェイクスピア「もの」語り 松岡和子 新潮文庫
★シェイクスピアハンドブック 高橋康也編 新書館
★シェイクスピア作品ガイド37 成美堂出版
★シェイクスピアのハーブ 熊井明子 誠文堂新光社