孤独の唄-2023
あれから一年が経ちました。そして、あの時から2年が過ぎました。あの頃からは8年が経ち、その頃から10年が経ちました。
私は"何か"を探して、何度も何度も地球を回り続け、やがて月まで辿り着きました。そこはまんまるな月ではなく、三日月でした。
三日月の縁に一緒に座ってくれる人を探して待っているうちに、やがて新月になり、私は落っこちてしまいました。そこは地球のような、全く違う場所のような、しかし地球なのでした。
私には芯点がありません。過程とプロセスを愛して、結論を嫌います。これまでの10年間常にそれだけを求めて、それだけに囚われて生きてきました。
三角には交点があります。わたしはそれを探していた。それは結論であり、それが私なのです。私は私の結論を出す事を嫌い、生き様を否定しました。
でも今は、先人達の知恵と経験と力を貰える機会に恵まれ、きっと彼らも同じ道を通ったのでしょうか。その真意は定かではありませんが、私はそう信じる事で、あなたの後ろをついていく事に決めました。彼らは彼らの道を歩き、私はその道を跨いでいきたい。
私は、藍しか知らなかったのです。藍が故に、愛したいと言うのです。
私は「届ける事」「愛する事」「護る事」を学びました。彼らが私に伝えたのは、彼らの道ではなく、私の道をただ伝えてくれただけなのです。
それが、私が師と仰ぐ所以です。
彼らは、振り返る事しか知らない私に、その先がある事を教えてくれました。
彼らは、私にないものを伝えたのではなく、私に在るものを気付かせてくれました。
15年前の私が、毎日そうしていたように。
12年前の私が諦めた、全ての事を掬い上げるように。ただそうで在ると伝えたいのではないでしょうか。
私はずっと美しさを求めていました。
一方で、全て美しいのだとも叫んでいました。
裏を返せば、「美しければ全て愛せるのに」という叫びだったと思います。
そして気がついたのは、全ては美しいのであるという事。私自身を愛する事で、世界の全てを愛せるようになった事。
嫌いなあの子も、道端のゴミも、雑草も、富士山も、スカイツリーも、戦争の心の内すらも、私にとっては愛すべきものなのです。
ただ、そうで在る。それだけなのです。
三角形の交点にはなにがくるのかでしょうか。
そこに、私自身がいるはず。
この一年、私は私を辞め、私たちを目指して生きてきました。同時に、孤独の年として生きてきました。現実と心、双方に孤独が始まり、そしてついに1人になりました。
直感的に、中心点には"問い"がないのだと感じました。
先輩方は、常に何かを探求しているように思えます。もちろん、私自身も何かを探し続けているように思えます。対して、私は私に、"何か"を見つけられるものなら見つけてみろ。そんな気持ちすらあります。
私とは、そんな狭間に生きているのだと思います。
淡い曖昧さは、私の作品には色濃く現れる作家性であり、それは私の一手一拍に現れている。
揺らめきの中で、私は私のフィールドを守り、それによって存在を愛し、届け、護ろうとしている。
私の中心点には、孤独の先にある孤性という名の私たちがあるのだと、信じています。
私は孤独を目指す。それは、私たちが私になれば、それは私1人の、私たちである一つだから。
真の孤独は、孤性を持った私たちという1人なのだと信じている。
最近、私は次世代についてよく話すようになりました。私と言う私たちは、エヴァンゲリオンによってすでに一つの答えが出ているように思えます。
私たちは、私に回帰する。それは選択によるもので、それが今の世界です。
しかし、私以降の次世代は、きっと、サードインパクトが既に起きているようにも思えます。
私はそんな、次世代を生きていきたい。
先輩達の意思と願いを引き継いで、それでも次の根を張りたい。私たちが、私に溶け合い、それでもなお、それは私たちでありたい。
それが出来るのが、今の20代であり、それを享受して次に繋ぐのが、私の次の世代だと思います。
私は何故創作をするのでしょうか?私は何故創作をしないのでしょうか?世界に主張する事も、見たい景色もないのです。何もない。何もない場所から産まれてしまう作品たちは、ある種潔白で、ある種不要に捨てられてしまう作品でもあります。
あなたの愛は、哀なのだ。
この言葉に囚われて一年が経ちました。
うるせえ黙れとも思わなくなりました。
このマットな世界に、ペンキをぶちまける事。それが創作なのだとしたら、私は白い壁に白いペンキをかけるでしょう。
もう嘘はつきたくない。
私は白い壁には白いペンキを塗りたい。
そこは変わらずとも、私がペンキをぶちまけたという過程が産まれる。それが私の創作であり、結論は変わっていないのです。
愛してる人に愛してると言えないのは何故だったのか。私があなたの前でどうしても緊張してしまうのは何故なのか。それは、まだわかりません。
ただ1つ理解したことは、その先にあるのは、ただ愛されているという事でした。ただ護られ、ただそれを届けてもらっているのです。だから、私を構成する三要素は、そこに帰結していくのです。
道に舞う枯葉を愛したことはあるでしょうか。
この1年、枯葉のように虫に食われて穴が開き、それでも舞い続ける日々を送りました。
楽しかった。なんだかんだ、楽しかった。こんなにも恵まれた時はない。やはり僕も人間で、褒められ、認められたら、きっと嬉しいのでしょうね。