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#南極の日(短編小説)
『歩いていても、眠っていても、ほとんど君のことばかりを考えている。僕の身に何かあったとき、これだけは知っておいてほしい。僕にとって君がどれほど大切な存在かということを。君との楽しい思い出を胸に僕は──』
気がつけば南極にいた。
はっきりとそう言えるほど自意識を喪失した状態で南極大陸に降り立ってしまった。
日本からの直行便はないのでまずアメリカに行き、ブエノスアイレスから南アメリカ大陸の最果ての港に行く。そして、南極大陸までクルーズで2日ほど。その道中の記憶がまるでない。何もかも、失恋のせいだった。君を失ったことで、それまでに君を想うことでなんとか形を保っていた輪郭はぐちゃぐちゃになり、僕は茫然自失の黒い塊になったように思う。そんな真っ黒な岩のような状態で、南極大陸に立っている。
「佐藤さん、大丈夫ですか」
大丈夫なわけがないだろう。僕は今、人ではない何かだ。この禍々しい色が見えないのか。極寒の大地を踏みしめながらもなお、僕はまだ絶望の淵にいるのだ。
「……大丈夫じゃないな」
そう言った隣の女性が、遠くを指差してまた口を開く。
「ペンギンの群れがいますよ、かわいいです」
何がペンギンの群れなのか。同じ黄色い防寒着を着させられたこの約100人こそ、あいつらにとっては「人間の群れ」だろう。しかもかわいいなんてこともない。ペンギンは嗤っていることだろうよ。
「うーん」
隣の女性、そういえば名前を聞いたように思う。思い出した。美樹さんというらしい。美樹さんは唸った後、僕の顔とペンギンとを見比べて、後者を選んだようだった。ちらりと横顔を伺うと、目を輝かせてかわいいペンギンたちを眺めている。それはそうか。もし僕がどす黒い塊じゃないとしても、しかめっつらをした齢三十の男性の顔とペンギンのそれとでは比較対象にもならないだろう。美樹さんがかわいい動物を選ぶのも無理はないのだ。僕はまた眉間にシワをよせて、ぼーっと風景を見ていた。美樹さんはアザラシも見つけたようで、きゃっきゃとしている。南極大陸に降り立つ人数には上限が条約で定められていて、それが100人。その中で美樹さんを除いた唯一の日本人が僕だったということで、彼女はいたく僕に懐いていた。
ぼんやりと記憶が戻ってきてくれた。失意の中、南極大陸に行こうと思ったのはかつての恋人が寝る前によく読んでいた本がきっかけだった。「アムンセンとスコット」という南極大陸への最初の到達を競った冒険家たちの記録についての本で、スコットに感情移入してしまうと涙無しに読めないと彼女は話していた。やけに饒舌に語るものだから、僕もこっそり読ませてもらっていた。内容は悲惨だった。雪上車の故障、次いで馬をも失い、不運が続いたスコット隊がようやくたどり着いたときには一ヶ月も先にそこへ到達していたというアムンセン隊によるノルウェーの国旗がはためいていたという。その赤と青の鮮やかな旗の絵面を想像するだけで僕まで絶望してしまう。帰路についた彼らは同胞を次から次へと失い、全滅してしまう。そのスコットという人も、最愛の人へ手紙を遺して亡くなっている。考えていると涙が出そうになる。眼球がカチカチになりそうだ。いや、もはや泣かなくともこの氷点下ではまつ毛の先から凍っていく。泣いてしまえばもう何も見えなくなることだろう。必死に堪えた。
「神よ、ここはひどく恐ろしいところです」
スコットが日記に残したという言葉を口走りながら、僕は手を合わせた。隣で美樹さんが困惑している気配がある。
「佐藤さんさ」
美樹さんが肩にポンと手を置いて僕に話しかける。
「失恋したからってその悲しみのあまりにこんなところまで来るなんて、その男意気こそ私は評価したいよ」
男意気なんてものはない。ただただ虚しい、30歳のやけくそ行動を評価だなんて、するもんじゃないぞ。
「うーん。そうかもしれないけど、私は佐藤さんの行動力を称えたいと思うよ。南極にまで来れた佐藤さんには、この先たくさんいいことがある、絶対に」
また肩をポンポンと叩いてくれたあと、美樹さんは僕をあえて放っておくことにしたらしい。覚えたてだという英語で周りの人と会話をしはじめた。
視線の先にいたペンギンがコテンと転けた。しばらく足をばたつかせた後、なんでもなかったかのように起き上がった。そのタイミングでくしゃみが出た。手で口を覆って済ませた後、自分の手をじっと見た。どうやら人間の形を取り戻したらしい。恋人と行っていたスキー場で愛用していた手袋。なんて未練がましいんだろう。と同時に、彼女とここへ来れたような気にもなって、少しだけ嬉しくなった。
クルーズ船に戻り、温かいコーヒーを飲んだ。この世で一番おいしいコーヒーだと思った。彼女と別れた朝を思い出した。あなたが何を考えているのかわからない。私がどれだけあなたを好きでも、あなたはそうじゃない。さようなら。涙を流しながら出て行った彼女を追いかけることもなく、僕はただ、何をしていても君のことを考えていたというのに、それを言葉にして伝えなかったことを後悔していた。その日のうちにこの長い旅のチケットを取っていた。そして、気がついたらここにいたのだ。
カバンからレターセットを取り出して、彼女への手紙を書いた。スコットがそうしたように。ただ、彼とは違って、僕は無事に帰路につき、彼女の元へと帰ることだろう。再会できたなら、開口一番こう言ってやろう。「僕は南極大陸まで行って帰ってきた男意気のある奴で、君を幸せにする覚悟を持ち直した」と。思えば、勝手に感情移入していたスコットに対し申し訳ないほどに自分の絶望は大したことがなかった。こうして暖かい船内でくつろぐこともできている。
すっかり立ち直った僕は、美樹さんにそれを報告しておこうと思って船内で姿を探したが、見当たらなかった。疲れて眠りに行ってしまったのかもしれない。せっかく旅先で出会った唯一の日本人がこんな奴で、可哀想だったと思う。謝らなければならない。
そう思っていたが、日本に着くまでに彼女と再会することはなかった。乗組員に尋ねてみても、「日本人はMr.佐藤しかいないはずですよ」と言われてしまった──という結末を妄想しながら飛行機を降りて荷物を待っているところに、美樹さんが不意に現れた。思わず幽霊を見るような目で見てしまうと、美樹さんはゲラゲラと笑った。「佐藤さん、すっかり人間味が出てきましたね」。あの時に皆でおそろいで着させられた防寒着とまったく同じ色味のダウンジャケットを羽織ってニットの帽子を被った美樹さんは、同じく真っ黄色のスーツケースをコンベアの上から取り出して、僕のほうに向き直った。
「じゃ、元気で。彼女と仲直りできるといいですね」
肩を叩かれた。手袋越しじゃないそれは、ぱしんといい音が鳴って、僕の心を鼓舞するものだった。思わずこう答えた。
「僕は南極大陸まで行って帰ってきた男だぞ」
美樹さんはきょとんとした後、「でしょ」とにっと笑った。
【創作小説】みんなでSS持ち寄る会 Advent Calendar 2024 https://adventar.org/calendars/10024 #2024AdventCalendar_SS_10024