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クビコン落選作

 玄関に生首が置かれていた。
 なかなかよくできているマネキンの頭部だな、としげしげ見つめてしばらくしてからそれが本物と遅れて気づく。胴体から切り離されて時間が経っているのか、本来は澄んでいるはずの白目は濁って半透明になっていて、肌からも色艶は既に失われている。つるんときれいに頭髪が剃られていて、産毛も眉毛も睫毛も丁寧に処理され、生え痕もほとんど残っていない。これほど完璧に欺瞞されているのだからマネキンと間違えるのも仕方ないだろうな、と自分を納得させつつ、抱き抱えて自宅に持ち帰った。
 生首の持ち主は、たぶん元恋人だろう。数ヶ月前、わたし達はお別れをしたばかりだった。交際に至るきっかけも別離を選択した理由も、ほんとうに些細なこと。前者は友人の紹介で知り合ったのち、相性がいいし付き合おうと告白されて特に断る必要も感じられなかったから、流れでOKしただけ。後者は単純に相手の心変わりだ。他に好きな人ができたから別れてほしいと、あの日の告白と同様に突然に宣言され、やっぱり拒否しなければならないとは思えず、結局認めるしかなかった。
 我々の関係に何か一つ名前をつけるなら、確かに恋人と定義するのが妥当なのだから、この生首をパートナーと呼んだって差し支えないだろう。執着はあった。僅かではあったけど。好きな人が他にいると白状されて、傷つかなかったわけではなかった。離別を泣いて嫌がるほどではなかったけれど。
 だから、つまり、これは──あの人が帰ってきてくれた、ということでいいと思う。というか、今そう決めた。なんで首から下は戻ってこないかは、まあどうでもいい。よくはないが、生首だけでも手に入れられたのだから、これ以上を望むのはワガママになってしまう。わたしは弁えられる人間なのだから、自分が求めていい範囲だって充分理解している。
 さて。自宅へ引き取ったはいいものの、これからどうしよう。とりあえず外から持ち帰ってきたのだから洗うべきと考え、台所へ連れていく。お湯の温度は人肌よりちょっとあったかい四十度ちょうど、食器用の洗剤とスポンジだと肌を傷めてしまうだろうし、痛いだろうから浴室にある自分用のスポンジとボディソープを持ってきて泡立てる。やすりをかけるように、そっと丁寧に擦って荒い、お湯で濯いでハンドタオルで水気を拭き取る。
 しまった、このままでは乾燥で肌が荒れてしまう。せめて化粧水や美容液でもあればいいのに、生憎わたしの家にそんなものはない。あとで美容系のアイテムを一式まとめて購入することにして、とりあえず今はハンドクリームを塗りこんでおいた。すると、さっきまでカサつき潤いの足りていなかった生首は、少しばかり生気を取り戻したように見えた。まあ死んでるんだけど。
 切り取った人間が誰かは知らないし特に知りたいとも思わないが、それなりに美意識の高い人間らしい。首の断面はちゃんと人工皮膚でカバーしてあって、中身がこぼれ落ちないよう工夫されていた。仕事ぶりに感謝しつつ摩擦で傷めないようネックウォーマーやマフラーをぐるぐる巻きにして保護し、リビングに安置する。
 わたしの家は地味、というか仕事から帰ってきて寝るためだけの部屋なので全体的に殺風景だ。家具も間に合わせのものを適当に買ってきているだけだから室内の雰囲気に統一感もないし、掃除する暇もあまりないので散らかっているし雑然としているのだけど、そのおかげで生首を飾っても意外としっくり馴染んでいる。これはこれでその手のインテリアっぽくて悪くない。
 自分の仕事ぶりに満足していると、私用のスマートフォンに珍しく連絡がきていた。職場の人とは社用携帯でしか繋がっていないし、恋人を引き合わせてくれた友人を除くとプライベートで関わりのある他人などいない。ひとりぼっちのわたしに、わざわざ連絡を寄越してくる人間なんていただろうかと首を傾げつつ、画面に表示された着信に出てみると──相手はその友人だった。最後に会ったのは何年も前のことなので、うっかり相手の番号を忘れてしまっていたらしい。悪いことをした。

『よう、久しぶり。元気でやってる? 長いこと不義理していてすまなかったな、久しぶりにおまえの声が聞きたくなって、つい電話をかけてしまったんだが……今から時間はあるか?』
「ええ。今日は休日なので……わたしに何か用件でも?」
『詳しいことは電話越しに説明しづらくてな。できれば直に会って話ができるといいんだが。今、たまたま近くまで来ているんだ』
「……そうなんですか。ええっと、まあ時間は取れなくもないですが……今から、ですか?」
『急ですまないな。突然のことだったから、前もって連絡するというのが難しくて。確かおまえの家の近くにチェーンのカフェがあっただろう。五分もあれば着くから、そこで落ち合おう』
「わかりました。準備を済ませてからそちらへ向かいますので、先に席を取っていただけると助かります」
『……ふふ、相変わらずおまえは堅苦しい。わかった、そうする。ではまた』
「ええ、また」

 一方的に通話は切られる。これもまた彼相手ではいつものことだ。元々、大事なことほど対面での説明や話し合いにこだわるひとで、メッセージや電話を介したやり取りは好まない。たまたま近くまで来ていると述べていたがそれもきっと嘘だろう。わたしと対峙するためだけに、彼は己の生活圏から遠く離れたこの街まで訪ねてきたのだ。であれば、迎えないわけにはいかないな。
 実のところ寝起きだったので、今のわたしは部屋着にボサ髪というとても人様には見せられない有様である。慌てて風呂場に駆け込み、最速でシャワーを浴び終え身なりを整える。出かける支度を済ませ、玄関まで向かい──一度リビングに戻った。日中でも在宅でも常に閉じたままにしている遮光カーテンの隙間から射し込む、花曇の午後の光を受けて「あのひと」は微笑んでいる。
 色のない、薄くて固くてきれいな唇にそっとくちづけ、わたしは自宅を出た。

 昼下がりのカフェはほどよい混み具合だった。住宅街の中にあるからか、広々とした店内は井戸端会議中の主婦の集まりや読書中のご老人、勉強している学生連中などがちらほら見受けられる。呼び出した張本人である友人、上尾は窓際にある四人がけのテーブルを堂々と占拠していた。ワックスでセットされた前髪にカジュアルな装いと、いかにも仕事のできそうなビジネスパーソンらしい雰囲気につい口元が緩む。過去、あのひとと顔合わせの時間を設けてくれた時と全く変わっていない。
 向かいの席に腰をおろし、適当にアイスコーヒーを注文する。こちらよりもだいぶ前に到着していたのか、彼の手元にあるグラスはすっかり汗をかき、氷は解けて小さくなっている。半分ほど飲み物のかさが消えているのが、上尾の焦燥を物語っているようにみえた。そう、わたしの目にはこの男がなんだか焦っているように映る。なぜだろう。何か、あったのだろうか。

「……よう。久しぶり。最後におまえと会ったのって、あいつと引き合わせたとき以来……だったっけ」
「ええ、そうですね。今更にはなりますが、あのときはお世話になりました」
「別れたんだろう? あいつから聞いたよ。一応共通の友人、ってことになっていたからな」
「知ってたんですか。わざわざ知らせることもないだろうと、こちらは伏せておくつもりだったんですが」
「あいつは律儀なやつだったからなあ。おれの顔に泥を塗ってしまった、と気にしていたんだろう。ずいぶん悩んでいるようだったよ。なぜ別れたか、というのは聞いてもいいんだろうか。あいつは最後まで、それだけは口を割ってくれなくてな」
「くだらないことですよ。それにありふれてもいます。ただの心変わりです。わたしではない、別な人のことが好きになったんだそうです。……それだけですよ」
「……ほんとうに? ほんとうに、それだけか? にわかには信じられない……あいつが心変わりだなんて」
「さあ、あのひとの本意がどこにあるかなんて、わたしは知りませんから。言われたことが全てです」
「おまえは、真に受けたのか。それを」
「ええ。だってそれ以外に、どうしようもありませんから」

 上尾はテーブルの上で組み合わせた両手をかすかに震わせていた。なんだろう、彼は何が気に食わないんだろう。心変わりを起こしたあのひとが? それとも、別れを切り出された上に素直に受け入れ、あまつさえ平然としているわたしにか。きっとそのどちらもだろう。わたしが知らなかっただけで、どうやら彼は我々に対して色々と気にしていたらしい。あのひとが言うように、上尾は体面を気にするたちであるから。

「……あいつが急に行方不明になった、という話は聞き及んでいるか。数日前から突如音信不通になったのち、消息が絶たれた。手分けして捜索している最中だが、手がかりは何も見つからない。何か、知っていることはあるか。たとえばあいつが行きそうな場所や、会いたい人間について」
「いいえ。何も。今、あなたから初めて聞かされました。……役に立てそうもなく、申し訳ありません」
「そうか……そうか、であるなら仕方ない。すまないな、いきなり呼び出してしまって」
「わたしも、あなたの元気な姿を確認できたので、謝ることはないですよ。上尾、あまり気に病む必要はないかと」
「ありがとう、少しだけ肩の力が抜けたよ。なあ、別れるときに心変わりしたとあいつは言ったんだろう? その他に好きな人とやらのことは何か聞いていないのか?」
「気にはなりましたが……特に問い詰めたりはしませんでした。揉めたくはありませんでしたから」
「そ、そうだよな……普通、聞かないよな。いきなりで悪かったな、プライベートなことなのに」
「新しい恋人とやらの元にいるのでは、と考えたのでしょう? まあ、たぶんそうじゃないですか。きっとね」
「わかった。とりあえずその線から捜してみることにするよ。おれはもう行くが、まだここに残るか?」
「あの、さすがに奢られるわけには……」
「いいっていいって。情報提供料として受け取っておけ。じゃあな」
「……ええ。さようなら」

 チラチラと腕時計を見遣りながら、慌ただしく退店していく上尾の後ろ姿を見送った。よほど多忙なのか、それとも何か時間の差し迫った予定でもあるのか。それはわたしの知るところではない。話に夢中になっている間に、席に届いていたコーヒーはすっかりぬるくなっていた。もったいなさは覚えたものの、もう手をつける気にはなれず、卓上に放置されたままの千円札と一緒に伝票を持ってレジで支払いを済ませる。
 家を出た時にはまだ泣き出す寸前だった空は、とうとう涙をこぼしていた。傘を持ってくるべきだったな、と後悔しながら濡れ鼠になるのを覚悟で歩き始める。しとしととそぼ降る春の雨は絹糸のようにやわらかく、肌に当たる雫はけれど冷たい。アスファルトに散らばった桜の花びらが雨に汚れ、その骸を晒していた。
 そろそろ春は死ぬだろう。やがてくる夏は、きっと全て腐らせてしまう。台所に置きっぱなした夕飯の残りも、愛も、何もかも。

 帰宅し、びしょ濡れの身体を拭くのももどかしくて急いでリビングへ向かう。ああ、あのひとは何も変わらずに、やっぱり笑いかけてくれる。雨に冷えたわたしはようやくあなたと同じになれた気がして、なんだか嬉しくなった。ああ、どうせなら。一緒に死ねればよかったのにね。知らない誰かに奪われるくらいなら、この手で殺してしまえばよかった。預けた体はいつか取り戻そう、たとえ骨になって灰になっても。
 今更になって思い知る。あなたを愛していたと。溶け落ちてしまったけれど、きっと。泥にまみれた感情をあなたに晒したくなかったから、わたしはずっと知らないフリをしていたんだ。やわらかくもない肉体に触れさせてあげなかったことを、精悍だったあなたの首から下に触れてこなかったことをずっと、これからも後悔し続けるだろう。どうせ心は繋がれなくても、種を芽吹かせてやることも叶わなくとも。
 たやすく変わるような心などに興味はない。ただ「あなた」がここにいればいい。



 歯列を割り、絡めた舌は冷たくて、少し甘かった。

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