その世界を臨むか
月に一度、地下室は半分水で埋まる。どこから来たのか分からないし、どこへ消えていくのかも分からない。見る限りは綺麗な水だった。
街中に陰としてある築四十七年の家を二十三万で買った。どうやら事故物件であり、裏に少し大きめの工場があり年月は経っているとはいえ、少し広い家で二階建てとなっている。どうやら日中家にいる訳では無いし、夜まで勤務を続けているという事でも無いから、私はここを住居とする事にした。二年経ったある日の夜、寝床に就いていた所に水の音が聞こえた。古い家だからとてつもない水漏れを起こしたのかと家中を探し回ったが、どこも漏れてはいなかった。しかし、一階よりも更に下から水の音がしていた。私は寝ぼけた耳と頭を頼りに音を探し、遂に洗面台の床に敷かれていた古くこすけた絨毯を捲ると、落とし戸を見つけたのだ。水に触れない所まで階段を降り、懐中電灯を付ける。地下室は半分程水で埋まっており、木の椅子と机が水没していた。工場からの水か、それにしては変わった臭いなどは全くしない。それに外に出てみても、工場は一切の電気と音を発していなかった。驚いたが、私は日が登ってから水道工事を頼む事にした。
不可解であった。次の日にもう一度自分で見てみたが、水は全く無かった。昨日は見えなかった所に本棚とランタンを見つけた。椅子や机は湿っておらず、ランタンはその蝋燭でもう一度燃えるようだった。家にあったマッチでランタンに火をつける。本棚に詰められた本は全て濡れた痕跡は無い。ああ、私は確かに地下室に水が滴る音で夜に起きたはずだった。この目で半分水に沈んだ部屋を見たはずだった。これだけじゃない、少なくとも二年放置されていた部屋だったのに、埃が全く積もっていない事だった。落とし戸はしっかりと建てつけられていたが、それでも五十年程に一回は開けていてもおかしくない。そうでなければ部屋に置かれた家具の説明が付かない。乾燥し、冷えた空気に引き締まった静けさ、綺麗な部屋の無機質な石壁に靴音は恐く反響する。
また、聞こえた。寝ていたのに、しっかりと。夢ではない、私はあの落とし戸を覗いた。やはりだ。水がある。やはり椅子や机は水に浸かっていた。机に置いたままのランタンは暗くて見えず、本棚は位置的に見える場所ではない。怖さよりも好奇心が勝ち、七段目に少しかかっていた水に人差し指で触れた。冷たかった。指が熱くなって溶ける様な感覚は無い。恐らくはただの水である。しかしどこから入ってきたのか。排水管が割れた形跡は無く、通気口の様なものも見当たらない。これは夢じゃない、現実だ。明日は流石に水道工事を頼む事にする。
しかし、だ。その場に何も無いのであれば、連絡など無意味だろう。今度は棚の後ろも天井もくまなく見てみる事にした。しかし何も見当たらず、その椅子に腰掛けた時だった。まだ一つ見ていない場所がある。それは階段の角に鉄で留められた、一番暗い部分だった。懐中電灯で照らし、ドライバーやレンチを使い、頑丈に留められたパーツを少しずつ取っていく。見えたのは小さく丸いダクトだった。奥を照らして覗き込むが、曲がっている部分から奥は見えなかった。しかし水が入る場所を考えると、排水管かこのダクトしか無い。古い建物である以上、ここを塞いでいた理由は何かしらあるのだろう。しかしこのダクトから水が出ていたとなると、話は変わってくる。普段私自身も立ち入らないとはいえ、私の家を断り無く水で浸すなど、到底許せる行為では無い。
一ヶ月、今日が来た。また、水の音だ。地下よりも先に外へ出た。ダクトがある以上、もしかすると誰かが水を入れているのかもしれないと思い、人影を探す。月は明るく輝く。満月だった。家の周辺を探すが、辺りには誰もいない。工場もまた沈黙している。前の昼間に無闇に探すよりも、人を見つけるか水の音を聴き分けた方が早いと考えた。どうやら、あのダクトは外に繋がっている様なものでは無い。家へ戻り、地下室へ行く。やはり半分程水に沈んでいた。濡れる事を構わず、服のまま入っていく。この前よりも水は温かい。大体二十五度くらいはあるだろうか、一番下まで降りると、腰より少し高い位置まで水に浸かった。ランタンと本棚は無く、ダクトの部分を見ると、留めていたはずのカバーが外され、少しずらされていた。誰かが、この家にいるのか?
「誰だ! 誰かいるのか!」
夜の水と壁に声は反響する。壁が少し沈んだ。奥から光が見える。青い光がその奥の部屋を照らす。奥に人影が見えた。顔全てを覆うマスクと防護服を着ていた。
「今すぐ立ち去りなさい」
小さく青い、とても綺麗な光だ。見惚れてしまった。その光に足を一歩、進めた。
「そうか、君もか」
力が抜け、少し吐き気の様なものを感じた。それでも、その光は尚私を惹きつける。腕と顔がとても熱い。それでも、
了 (2024/6/1-2024/6/9)