シロ

 僕は音楽を辞めた。辞めたというより、諦めた。小学生の時から音楽が好きで、朝早く音楽室に忍び込んではピアノや、バスマスターと言われる、弦楽器でいうところのベースを弾いていた。壊したりはしなかったし、先生に見つかった時も君は本当に音楽が好きだねって言ってくれただけだった。

 「ねえ、アキラ。中学校入ったらさ、パソコン部入らない?」

 シロ、髪が腰ほどまで長く、仲の良かった女の子。放課後はよく二人で遊んでいた。不思議な子だった。酷い持病持ちで体は弱かった。でも活発な子だった。僕の手を最初に引っ張ってくれた。おもちゃの様なケータイに話しかけたり、人の家の押し入れに勝手に入ったり。

 「何それ」

 「そのままだよ、パソコン使うだけ。ね、お願い」

 いまだに覚えている、二人が分かれる交差点。シロはポールに捕まりぐるぐると回っていた。細い鉄の棒、先に付いていた道路標識は怖い程に揺れる。お姉ちゃんもいるんだと、そう誘ってくれた。


 「いいよ」

 僕の嫌いな人が吹奏楽部に入った。僕の方が先に音楽が好きだった、事実かもしれないけどそんな子供みたいな言い訳はしなかった。本当の事を言うのが苦しかったから、それを理由にして吹奏楽部は入らなかった。

 それでも楽しかった。今まで家にネットを通してないのもあって全く知らない世界だったし、サックスやピアノに触れなくても楽しかった。でも、校舎の夕焼けから鳴り響く音が、少しだけ呼吸を引き攣らせた。

 「本当はさ、吹奏楽部に入りたかったんだよね」

 「そうなんだ、でもアイツいるじゃん」

 彼女にはバレていた。僕はシロにだけは前からアイツが嫌いだと言えていた。それを覚えていてくれた。

 「うん、そうなんだ」

 だから、誘ってくれたのかな。君は髪を切った。


 高校生になって、シロとは別の高校に行った。それでも同じ町だから帰り際に何回かばったり会った。

 「ウチ、勉強したくなかったからアキラと違う学校行ったけどさ」

 夕焼けは眩しかった。そう言えば一回も遊ばなくなった。

 「ちゃんと勉強して、アキラと同じ学校に行けば良かったな〜って」

 その顔は少し曇っていた。本心だったのかもしれない。学校が面白くないとも言っていた。友達が出来なかったのかは分からないけど、君は馬鹿騒ぎが好きじゃないって言ってったっけ。

 僕はまた、吹奏楽部には入らなかった。入れなかった、にも近いかもしれない。急に吹奏楽部に入ったところで、足手纏いにしかならないと感じていた。でもやっぱり、教室で遊んでいても聞こえてくる、不揃いながらも一点に向けた音に、心は少しだけ寂しさを感じていた。


 僕は高校を卒業してから、コンビニでバイトを始めた。中学生の時からずっと、大学生になる時にはその店でバイトをしようと決めていた。でも先に、シロがそこでバイトをしていた。彼女からアキラって呼ばれるまで、僕は気付かなかった。時期が時期でマスクをしていたから、君がそんなに大きくなっているなんて分からなかった。

 事実、僕はバイトを重ねた。彼女は嫌がっていたかもしれない。ただ、僕が歩いて行ける距離にあるのはそこしか無かったからと、自分に言い聞かせた。

 一切話さなかった。一回だけ、どうでも良い事を強い口調で責められたけど、それっきりだった。君は君だったはずだけど、彼女は彼女だったろうか。

 二年経って、シロはバイトを辞めた。話していないから彼女が高校を卒業してから何をしているのか分からなかった。進学か就職か、時期的にも辞めた理由はそれくらいしか思いつかなかった。そもそも、高校は卒業したのだろうか、何も知らなかった。

 それでもたまに彼女の顔は見た。母親と買い物をしに来ていた。金髪禁止のバイトを辞めてから、綺麗なまでの金髪にしていた。バイトの時も相当明るい茶髪だったけど、ようやく振り切れていた。昔の不思議な君はどこへ、君はコンタクトをして可愛くしていた。

 地元七月第三土曜日、夏のお祭り、君がいた。黒い洒落た服を着て。君がおめかしをするなんて思わなかった。でも、話しかけるのが何だか怖くて、気付かないふりをして別の友達と話していた。

 優しく肩を叩かれた。触られた事のある手だったけど、誰のかは思い出せない。振り返ると、君はシロだった。他の人も居るのに、僕の肩だった。

 「久しぶり、元気?」

 何だか嬉しかった。けど、同時に色んな事を考えてしまった。バイトを被せた以上、シロの姿を一番知っているのは僕だったから、呼びやすいから呼んだだけなんだろうなって思った。

 「シロじゃん、久しぶりだね」

 振り絞ったその声が、そのアンサーが合っているのか分からなかった。ただ、一瞬をもっと良い言葉が見つからなかった。祭が終わるまで、友達とシロと僕でずっと話し合っていた。祭の最後に打ち上がる花火は、あの頃の僕らと違って小さかった。また、来年は話せるのかな。


 学生最後の年、僕は少しずつ就活を始めていた。何となく、行ってみたいなの感覚で東京に行こうとしていた。こんな歳になったんだ、時間が過ぎるのは早かった。昔の不思議な君の面影はどこにもいなかった。髪は赤にも紫にもしていたし、服も可愛さなど全く考えない様な緩い服だった。それでも一切話さなかった。ただ、タバコを買っていた。それだけ疎遠で無縁になった筈なのに、少しだけ、要らない考え事をしてしまった。もう直ぐ最期なんじゃないか、それを自覚しているのかなって。だから、好きに生きようって考えているのかもしれない。

 音楽は変わらず好きだった。でも聞くだけだった。もう、弾く気力なんて無かった。部屋の画角一枚を飾るピアノとギターには埃が軽く積もる。また、夏が来る。


 学生最後の祭、君が居た。嫌われているんだろうなって感じながらも、去年の事を信じて恐る恐る話しかけた。

 「久しぶり、元気?」

 思わぬ声で、シロは少し飛び跳ねる。

 「アキラ、脅かさないでよ」

 声も喋り方も、昔から変わらなかった。強いて言えば、君が少し大きく見える。何だか、一人で大人になっちゃってさ。

 「少しさ、歩こうよ。抜け出してさ」

 夏の夕焼け、温かいこの町は二人だけの懐かしい時間が流れていた。何を話すでも無いけど、何だかもどかしかった。

 「そう言えばさ、俺、東京行くんだ」

 「そうなんだ、ウチも行きたかったな」

 行きたかった、その言葉に引っ掛かりを覚える。

 「たまに遊びにおいでよ」

 「行けたらね」

 懐かしいあの交差点、道路標識は何もせずとも揺れる。少し離れたこの場所でも、人々の声は微かに聞こえる。

 「アキラさ、前に言ったウチの病気、覚えてる?」

 「うん」

 分かっていた。言葉の意味も、何を言いたいのかも、何となくだけど、一つしか無いって。

 「もうね、長く無いんだ」

 分かっていた。もう、分かっていたから、やめてくれよ。

 「ねえ、アキラ」

 「うん」

 タバコも買ってた、君の気怠い目も覚えてる。

 「葬式、来てよ」

 「いいよ」

 嫌だよ。

 「とりあえずさ、車出すから、乗ってよ」

 車のエンジンをかけて、助手席にシロが座る。中学以来の距離感、落ち着かない懐かしさがキーを回す手を震わせる。

 「どこ行くの?」

 「うーん、どこか。適当に。何か食べたい物ある?」

 「ないよ」

 「そっか」

 どうしようも無かった。何でもない、嫌われているだろうなって思っていた人なのに、どうしてこんなに考えてしまうんだろう。夕日は少しずつ沈んでいく。オーディオから流れる、お気に入りのアルバム。ハンドルを握る手が冷たかった。

 「ねえアキラ」

 「何?」

 「楽しかったよ」

 「そっか」

 横から目が見えない位に髪を伸ばしていて良かった。

 「シロ」

 「ん?」

 「俺の事、嫌いだった?バイト被せたし」

 「何も思わなかった」

 「そう、なら良いんだ」

 本当に、一番聞きたかった事なのかな。話の繋ぎとして、最悪だったかもしれない。シロはそこまで考えているかな。一時間もしない内に夕日が沈むだろう、車は進む。

 「ウチさ、髪切ってからアキラが変な顔したの、覚えてるよ」

 「だって、ずっと長かったからね」

 そんな事まで覚えてるんだ。

 「でも、短いのも良いでしょ」

 「もう伸ばさないの?」

 「鬱陶しくてさ。切ってから気付いた」

 「そっか」

 そう言えば冗談だって分かってたけど、急に付き合ってくれって言ってきた事もあったんだっけ。君といた時間は長かったんだね。

 「アキラさ、まだ音楽好きなの?」

 「好きだよ。ずっと邦ロックばっか聴いてる。今流れてるのもそうだよ」

 「ふーん」

 昔とやっぱり変わらない返事、でも昔を覚えてるその返し。消防署から流れる時報の音が遠くから聞こえる。

 「アキラってさ、キスした事ある?」

 「急になんだよ、やめてくれ」

 「ある?」

 「あるけど」

 君はそんな事を言うんだっけ。やっぱり、僕の知らない時間は君の生き方を変えたんだね。髪の色もそのタバコも。車をファミレスの駐車場に停める。

 「耳貸して」

 「なんで」

 「いいから」

 左耳を寄せると、鋭い痛みが走った。動かないでと念を押される。

 「何したの」

 「ピアス開けてあげようかなって」

 「え」

 開けるつもりは人生でも無かった。けど、やった事はもう戻らない。

 「初めてでしょ。ずっと開いてなかったし」

 「良いかどうか聞いてくれよ」

 「やだ、アキラ絶対やだって言うもん」

 「やだね」

 「でしょ?それにね、ウチとの思い出残しておきたかったんだ」

 それは祈りであって、それは呪いの類にも聞こえた。

 「帰ろっか。お腹空いてないよ」

 「そっか」

 でもやっぱり、君は不思議だった。家に帰り車を停め、二人でまた歩いて祭に戻る時に、その沈黙は破れた。

 「たこ焼き食べたい。アキラ買って」

 「ジャンケンな」

 軽く握った左手を出した時に、君は右手を入れ込む。手を繋いでいた。

 「生きてたら、また会おうね」

 風が吹く。僕の時間は止まっている。その笑顔は、かわいいでも美しいでも表せない、素敵なものだった。


 三年経った。あれから僕は東京にいる。荷物が届いた。中古のピアスとインクの滲んだ一枚の手紙と、遠い記憶だった。



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