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人を好きになれるって、才能だと思う


Ciao!ゆうです。

恋愛脳が羨ましい。

長い間内に秘めていたものです。
昔の自分は、恋愛に生きるような人たちを少し馬鹿にしたようなところもあったのですが、それを突き詰めると、ただただ“羨ましい” に尽きるのです。
自分にはできないことだから。

私は人生で三度、お付き合いの経験があります。けれどそれらすべて、相手に告白してもらって始まったものでした。
私は人を好きになれない。恋愛的な意味で、ね。
恋愛的な意味で、というよりも、友愛と恋慕の違いがよく分かっていないから、その人に対する“好き”は友愛か恋慕か、判断がつかない。
なぜ分からないかと言うと、私の“好き”は一定の距離を超えると途端に、重たくなってしまうから。
たとえば同性で気が合う子ができると、私はその子に対して“私以外と仲良くしないで!”と思ってしまう。
しかし私には立派に育てられた理性くんがいるので、そんな事を直接言ったことはないしそんな素振りを見せたことも無い。だけど、頭の中では嫉妬だらけだ。
私以外と仲良くしないでほしいし、他の人と何を話しているのか気になるし、「一緒に帰ろう」って誘われたいし、メールだって毎日したい(即レスは苦手だけれど)。
そして自分→→→友人 なのが怖くて、みっともなくて、プライドの高い私は自分から距離を取ってしまう。『振られる前に振ってしまえ』、この精神だ。
さらに残念ながら、私はこの気持ちを異性に対して持ったことはない
この歳になって未だに、「LIKE」と「LOVE」の違いがよく分からないのだ。


だから、「付き合って」と言われた時、別に嫌いじゃないし、この人に対する“好き”は恋愛的な意味でのものかもしれない。そう思って、yesとお返事をした。三度ともだ。

そして三度とも、(なんか違う)とお別れする。自分勝手も甚だしいところである。
以上が、私が“人を好きになれない”と言っている理由。

恋慕。

恋い慕う。そんな気持ちを持ったことが無い。そこまで惹かれる相手に出会ったことがない。
でも、周りには好きな人が短期間でコロコロ変わる友人が複数いる。“恋愛脳”ってやつだ。
別れた一週間後には違う人を好きになっていたり、形は様々だけれど、それらは一定として“恋愛脳”の持ち主だと言える。

“常に誰かのことを好きな人”

これが恋愛脳のイメージ。


そこには、“常に誰かに傍にいてほしい人”
という側面もあったりする。

“常に誰かに傍にいてほしい人”──こういう人たちを、私は依存体質だと考えている。
自分を好きだと言ってくれる人が傍にいないと、精神的にグラついてしまう人。何をするにも、恋人の意見を求める人。要するに、それらは承認欲求だったり、自己肯定感の低さから来るものだ。そしてそういう人は、自立していない、とも考えられる。
私は精神的に自立している。自分だけで生きていける、と思う。甘い考えかもしれないけれど、悲しい時は一人で泣いて一人で回復するし、つらいときや腹が立つときはtwitterに吐き出したりして、気付いたらその気持ちは無くなっている。
twitterはすごい。愚痴を自分勝手に吐き出せるし、たまたま親切なフォロワーが居合わせると共感してくれたり、心配してくれたりする。たまにそれは違うんじゃない?なんて的確な意見が飛んでくることもあるけれど、とってもハートフルなホームだ。ありがとうtwitter、一生ついてくぜ!

そしてこれはtwitterの醍醐味(?)だと思うのだけれど、フォロワーたちの心配は“義務”ではないことを知ってるから、楽というのがある。
小規模の身内のみをフォローしているアカウントでは違うのかもしれないけれど、私は本当に脳直でツイートしているので、フォロワーからの反応を期待していない。フォロワーも偶然浮上していたりして、反応したいときだけ反応する。だから私は、フォロワーが義務感から心配の声をかけているとは考えていない(もしフォロワーにそういう人がいたらゴメン、無理に反応しなくていいんだよ)。だから、楽だ。
まあとにかく、私はそうやって【一人でどうにかする】力を身に付けてしまった。人に頼ることを滅多にしない私は、恋人にするにはあまりに可愛げがないと思う。

何故かtwitterの話をしてしまった......
話を戻します。


恋人が途切れない人。なんでそうコロコロ好きな人を変えられるんだろう。どうしてそんなにすぐに他人を好きになれるんだろう。
わからない。


恋愛に、夢中になれない。


“恋する女の子はかわいい”
という言葉がある。私もそう思う。周りを見ていて思う。恋してる子は、かわいい。
私だってそりゃあ、推しの俳優だって、推しキャラだっている。いるけど、届かないと分かっている。
接触や現場があるときは全力でオシャレを楽しんでいるし、その時の自分──オタクたちは、かわいい。胸を張って言える。
けれど、それはあくまでも【非日常】なのだ。日常と交差することはない。一時的な魔法をかけられたに過ぎない。

もし、どなたかこの記事を読んでくださっている方々の中で、恋愛脳をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひともご教授いただきたい。
なぜ、そう色々な人を好きになれるのか。
シンプルに羨ましいのだ。だって楽しそうなんだもの。


突然だが、私の“好き”は顔から始まることが多い。しかも、私の好きな顔はなかなか理想が高いとよく言われるので、そう巡り会えない。そして偶然、何らかの縁があって(好きかも)に出会ったとしても、その人の“人間味”を感じてしまうと、もうダメなのだ。あっ、はーい。となってしまう(最低)。
人間なのだからゲップもするし屁もするし、大便だってする。知っている。けれど、どうしてもダメなのだ。言ってしまえば、私の“好き”はその程度だ。

以前、6年ほどの付き合いになる男友達の家に行った。家に行くのは初めてだった。彼自身オタクであることを知っていたので、特段ロリ巨乳のフィギュアがあるとか、そういうのは別に構わなかった。
だけれど、絨毯に髪の毛が落ちているとか、朝使った食器がまだシンクにのこっているだとか、机の上にスナック菓子のカスがあるだとか、そういうのを見て、ちょっと駄目だなと思ってしまった。
私も人間だから、そりゃ毛は落ちるしお菓子だって食べる。だけど、ソレは私の許容範囲を超えていた。私はきっと、人それぞれにある【許容範囲】が異様に狭いのだと思う。

潔癖気味。それは事実。だけど完全な潔癖かというと、そうでもない。友人と回し飲みができるからだ。電車の吊革は、持てるけれど指先だけで持つタイプ。
そして私は考えた。この件が、もしも相手が同性だったらどうだったかな。
私は、受け入れられたと思う。いや、完全には受け入れられないにしても、この時感じた拒否感ほどではないように思う。
男性に対してのみ、この効果、フィルターは発動するのかもしれない。もう絶望だ。恋愛どうこう言っている場合ではない。
だから、惚れた腫れたにうつつを抜かすような生き方を、羨ましいと思う。
一時的であるにしろ、それが続くものであるにしろ、“人を(恋愛的な意味で)好きになる”というのは、才能だと思うのです。

もちろん、恋愛脳を持つ方たちだって、人のいい部分だけを見ているわけではなく、汚い部分や、嫌な部分も見ていると思う。それをなんとも思わない、もしくは何か思っても、許容できるってことでしょう?
恋愛は自分が傷付くことも大いに含まれているものであるから、そういうものと上手く付き合っていけるその精神、実は結構すごいんじゃないか。
最近はそう思います。
その人の嫌な部分まるっと含めて好き、が私にはできないから。

だから、人を好きになれるって素晴らしいと思う。

願わくば、私もいつか恋愛脳になってみたい。

お付き合いありがとうございました。


あなたの人生の暇つぶしに、どうぞ。

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