過保護か過干渉か、その両方か
Ciao!ゆうです。
母親の影から逃げられない。
今回のテーマです。
私の家は、人から見たら、”幸福な家族”。マイホームを持っていて、車があり、犬がいて、たまの休日、ショッピングモールに出かけたり。こうして綴っていく中でも私は自分を恵まれた環境で育った、と認識しているし、それは決して間違っていない。毎週練習試合のために馬鹿にならないお金を交通費に出してくれたり、一足が高いシューズを6年に渡り買ってくれたこと、奨学金を借りずに大学に通わせてくれたこと、感謝してもしきれない。これは本当。
だから私は言えない。
母親の存在が、途轍もなく重くのしかかるということ。
私には、門限がある。
「23時には帰ってこい。」
社会人に23時の門限が定められる家庭。少し、想像がついたでしょうか。
門限は破るためにある。
昔、友人に言われた。そんなこと、できるわけない。一度、塾で23時過ぎまで勉強していたことがありました。大学受験の時です。わざとではなく、たまたま先生に質問していたか何かで、23時を過ぎていました。スマホを見ると、鬼のような着信の通知に、「いまどこ?」というメッセージ。あわてて電話。
「いまどこ?塾?迎えに行くから待ってて」
当時自転車通学だった私は、その日自転車を塾に置いて帰りました。
車の中で言われました。「警察に電話するところだった」
肝が冷えるとは、まさにこのことです。びっくりして、同時に諦めにも似た感情が湧きました。そこからはもう、23時を超えようと思ったことはない。
当時のことを今でも思い出すくらいだから、きっとこの出来事は私の中でトラウマのようになっているんだろうな。本当に怖かった。このエピソードだけでは「それくらいで?」と思われると思うのだけれど、今までの母親のそういった制限や、口うるさいところが積み重なって、いまの私たちはできている。
そしてついでに、私の家は【オール禁止、お泊り禁止】。いまでもオールというものを経験したことがない。
けれど、私は彼女が口うるさくやめろ、やるな、はやく帰ってこいという言葉の裏に【心配】があることを幼いながらも知っていたから。だから、反発できなかった。親に感謝しているから。言われるまま、受け入れるしかなかった。怒られるのも面倒だし。
親が言うことって大体正しいんです。
むしろ、親のほうが私のことを理解していたりする。
進路に迷ったとき、私はいろんな方面に興味があって、一つに絞れなかった。例えば編集者、管理栄養士、銀行員、声優……そんな中で、彼女は「あんたはそんなん向いてない。それに給料や生活も安定してるものばっかりじゃないよ。こういうのは?」と提示してきたものがいまの職業です。
なりたくてなったわけじゃない。親に勧められたから。
なんてつまらない!
そりゃもう困った。志望動機なんてないからね。就活において、「なぜこの職種を?」と聞かれることはしばしばあることだけれど、私は「母親に勧められたから」としか言えないわけですよ。なんの夢も将来展望も、ない。さすがにそのままは言えないから、継ぎ接ぎででっち上げた理由をペラペラと話す。自分が嫌いになる、地獄のような時間。
親の言うことは正しいし、いつだって私を導いてくれる。だけれど、私にはなりたいものがたくさんあった中で、親に「向いてない」なんて言われてみたらもう、選択の余地なんてないに等しい。
そこだけは、少し後悔している。
私があまり納得できていないながらもこの道を選んでしまったこと、それをいつか母親のせいにしてしまうのではないか。
だけど高校生の自分に、そんなことまで考えられなかった。
もしいま進路に悩んでいて、親に「あんたはその分野向いてない。」だとか、「こっちにしたら?」なんて言われている人がいたら、私は伝えたい。
流されるな!
向いてない、なんて言葉は相手を縛り付けるだけ。それも自分に近い人間に言われてしまえば、あぁ自分には向いてないんだなって、思いこんでしまう。一種の呪いだよ。
向いてなかったら、やめればいい。やめるよりも、始めるほうが難しいのだから。……というのは建前で、本当は【自分の人生が期待通りにいかなかったときに、他人のせいにしないために】かな。他人のせいにするのは楽だけど、同時に自己嫌悪に飲み込まれてしまうから。
ま、そんな感じで私は母親に囚われている。別に母親から直接何か「私の思い通りに生きなさい」なんて言われたことはないのだけれど、精神的に、私は母親の枠から出ることができずに、生きている。
【過保護】という言葉を知った。過保護、なのだろうか。
必要過多な保護、甘やかしを行う場面が多く、こども自身の自主性を尊重し過ぎ、まともな社会人として巣立つのに必要な躾けをせずに済ますことを指す。 引用:Wikipediaより
例として、・登下校を親の運転する車で送迎する、や・教師に注意を受けると過剰に反応し、親が注意をした教師や大人に猛然と抗議する があげられている。
毎日学校まで送迎……というのはないけれど、たとえば雨の日は駅まで送迎してくれる。
そういうのは、過保護だろうか?
【過干渉】という言葉を知った。
過干渉は虐待の一種であり「保護者が我が子を一人の主体的な人間として認めず、その子供の意思や思考、自我の発達や自主性などを否定して、操り人形のごとく親の意のままにコントロールしようとすること」である。 引用:Wikipediaより
過干渉する親たちは「対象者を心配し、幸せになることを望んだ愛情からの躾」であるとしたがるが、実際には対象者が一つの人格を持った人間である事を認めることができず、「対象者は親の所有物である」といった観点で自らの価値観や好み、思考を一方的に押し付けて支配下に置きたがる親のエゴが見い出される。
過保護と過干渉は似たものだと思っていたけれど、どうやら全くの別物らしい。私の母親は、過保護と過干渉を両方併せ持っている。
母親は「心配」なのだ。そして私も、「心配をかけてはいけない」という一心だった。だからいままでこうして、母親の言うとおりにしてきた。
大学受験の頃、進路に迷っていた時に先生に言われた言葉がよぎる。
「ゆうさんは、母親から一度離れたほうがいい」
あれは、こういうことだったのか。
これが普通なのか、普通ではないのか、もう私には判断がつかない。なぜなら私にとって、私の母親だけが【当たり前】なのだから。
【私は恵まれている】のだ。そんな環境に置いておいてもらいながら、周りにはネグレクトの下で育ち、大学に通いつつも生活費を自分で稼ぐしかない友人たちに、何が相談できようか。
傲慢にも、甘えにもほどがある。
けれど私は、そういった彼女たちが羨ましいと思う時があるのだ。これはもう”隣の芝生は青く見える問題”であるから、どっちがいいとか、そういうものではないのだけれど。
私は今、一人暮らしを考えている。
親から離れて生きてみたい。少しだけ、息をすることが楽になるように。
しかし私は確信している。一人暮らしのための住居決めには必ず母親の査定が入るし、引っ越し業者選びにまで口を出してくるであろう。きっと合鍵を作るだろうし、家で出た不燃ごみや瓶など、回収の少ないゴミは母親が持ち帰って実家でまとめて捨てられるだろう。そして私は、それを拒否できない。
適切な距離。
私にはもう、わからない。
少しばかり愚痴っぽくなってしまった。
お付き合いいただきありがとうございました。
あなたの人生の暇つぶしに、どうぞ。