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往復書簡~隠しておきたかった思考の断面・前回につづいて~

拝啓

いよいよ季節が変わり始めたご様子ですが、いかがお過ごしでしょうか。こちらはりんごの果樹園が多く、今は収穫のさなかです。道の脇に規則正しく空のコンテナが積み上げられ、直売所には「りんご」ののぼりがはためいています。

りんご畑が多いのは、減反政策の名残だと聞いたことがあります。先のシーズンでは真っ白なそばの花を見渡せるそばどころでありながら、かつてはいかほどの米の生産があったのだろうかと考えてしまいます。どんないきさつで地域の方々が今の暮らしや生業に励んでいるのか思いを馳せるこの頃です。

前回お手紙をいただいてからかなりお時間をちょうだいしてしまいました。少しずつお返事を書き始めていた折にあなたの先日の投稿を拝読し、私に宛てられたものでなかったとしても、往復書簡を交わす立場で身が引き締まる思いでした。

お待たせしてしまいましたが、やっとお返事を差し上げることができます。改めて、お手紙と新たな作品をありがとうございました。『ピㇼカ チカッポ 知里幸恵と「アイヌ神謡集」』が尾を引くなか、じっくり読ませていただきました。

前便を拝読し、私はカトリをよく思えないだろうと単純な考えを抱きました。『ピㇼカ チカッポ』を読んだとき、金田一京助になんらかの思惑があったとは読み取らなかったにも関わらず、嫌な後味を残してしまったからです。そのような読み方からすれば、明らかな意図をもってアンナに接近するカトリのことを、アンナの “敵” として見ていくのだろうと。しかしいざ読み始めていくと、三人の論理(ロジック)をいずれも尊いと感じて、前回からの続きとしてこの本を受け取ったときの身構えるような不安とは裏腹に、白黒つけるのがどういうことなのか、却って分からない感覚になりました。正しい読み方というのもないのだろうけれど、理想を述べるなら、『ピㇼカ チカッポ』にもこんな風に親しみたかったなと思います。

先日、あるエッセイも心に強く響きました。訳あって詳細は控えますが、著者は以下のようなことに危機感を感じていました。それは、現代は常識も非常識も、善悪の境界さえも壊れていっているということ。

著者が肌身に感じていたのは絵画の鑑賞についてで、かつては作品そのものを称賛したり、共感する声で溢れていたのに、ロシアの侵攻によるウクライナでの戦争が始まる時期からは、寄せられる感想が一変したのだそうです。本来であれば「ロシア非難」や「ウクライナ擁護」といった論議とは切り離さなければならないはずの「芸術」と、「芸術を味わう人の感性」との関係性を嘆いたエッセイでした。この言葉はかなり堪えました。著者が引き合いに出している作品は、10年ほど前によく下調べをして鑑賞しに行ったことがあります。当時は、絵が描かれた背景を知っていればこそ色々と思うこともありましたが、それでも、モデルに注がれる絵描きの眼差しに胸がいっぱいになって帰ってきたのでした。今またその作品を訪れたら、純粋な気持ちで美しいと感じられるのか、自分が信用ならない気分です。

『ピㇼカ チカッポ』を一読したとき、まさに作品とそれを味わう私の感性が切り離されていたのだと思います。ベースとなった事実から人の記憶に残ったこと、語り継がれたこと、それから書き残されたこと…。捉えられるのはそれぞれ「あることの一面」に過ぎないなか、なにを問題視しても構わないという、ある意味今風でなんでもアリな発想が裏目に出てしまったのではと振り返りました。

一人で読んだのなら、想像していた読み方と異なる読み方をした苦い読書体験について深く考えることもなかったと思います。新たな作品に出会うことも、またそれらに心を動かされることも、同様になかったと思います。今の心境でいられるのは、一人で読んだのではないからですね。愛した言葉の運命を見据え、書くことへの使命感と悦びに満ちた女性について、正しさや間違いを吟味する以前に、知里幸恵がどのように生きていたかというひとつの証言を受け取る感性が必要だったと感じます。丁寧に丁寧にかみ砕いて私にも届く言葉でお手紙をしたためてくださったこと、そして『誠実な詐欺師』と引き合わせてくださったこと、ありがとうございました。

『誠実な詐欺師』は、登場人物の心の動きをかみ締めてどきどきしながら読みました。小さなきっかけや会話ごとに感情が揺れ動いて、目に映る景色まで変化していく細やかな描写が美しかったです。

トーベ・ヤンソン著、冨原眞弓訳『誠実な詐欺師』
筑摩書房、1998年10月25日第3刷

人の言動には意図があり、それは企みのこともあるし思いやりのこともある。それらを見抜いていて割りきった態度をとるカトリと、無頓着な分おおらかなアンナという対照的な2人のやりとりからは、「そっくりな人、知ってる」と、リアルさに驚きもしました。それから、私も同じように必ず判断の基準があって動いているということにも向き合いました。はじめは現実とはかけ離れた物語かと思いましたが、とても身近な誰か、もしくは私自身が、ひと冬の間に経験しそうなことなのかもしれません。私には、3人のような取り柄はなにひとつありませんが。

こちらからも、おこがましいですが最近読んでいた本を紹介させていただこうと思います。車谷長吉の『贋世捨人』です。

車谷長吉『贋世捨人』新潮社、2002年10月30日

この本は2017年の秋以来の再読でした。なぜ再び手に取ったのかは、この本の言葉を欲していたからというのが本音なのですが、車谷先生の姿に、手仕事に対して一切手抜きが見られないマッツの姿と重なるものがあったからかもしれません。しかし先生にはマッツのような微笑ましさや安らぎはなく、とことん自分を追い詰める狂気を感じます。この本は、そんな先生の、学生時代から小説家になるべく38歳で故郷を離れるまでの迷いや覚悟を詰め込んだ私小説です。

書き出しから西行の歌が引かれ、終始「世捨て」に憧れていた様子がうかがえます。ですが、雲水となった級友に会って自分の覚悟のなさを感じたり、さらには、ただ煩わしさから逃れて楽をしたいだけという性根の悪さを直視したり、また小説の原稿が没になり続けているさなかに飲み屋で遭遇した陳舜臣と自分を比較して、自分には書けるはずもないと納得したりと、煮え切らない態度をとり続けます。

それでも、紆余曲折してペンを取らない日がありながらも書き続けたのは、周囲の人々に突き動かされたから。「書け」と鼓舞されたからではなく、書くことでしかまわりに顔向けができない極限状態に立ったからでした。意外にも書きたいという情熱を露にする場面はなく、終わりに描かれた旅立ちには、救いようがないほどの重苦しい覚悟がありました。

本文中では、「私の宿縁(えんしょう)はどこにあるのか」という文面で「宿縁」という言葉が何度かつかわれます。そう思い悩むのは、「宿縁」に出会えば生きやすくなるという、すがりたい気持ちがあったからではと思います。しかし、気づけば「宿縁」は登場しなくなり、「どこかにおあつらえ向きの居場所がある」と淡い期待を抱くようなふわふわした情とは決別して、残るべくして残ったたったひとつの選択に向かって一歩踏み出す姿勢を描ききっていました。腹を括る場面は最後だけではなかったので、もしかしたら描かれなかったこの先でも、何度もぐずぐずしては崖っぷちに立ったのだと思います。6年前、この手を抜かずに生きていきたいと葛藤する「愚図」の姿に圧されて、自分は「お遊びはここまで」という気迫をなににおいても持てていないことが恥ずかしかったのですが、残念なことに読み直した今ものうのうとしてしまっています。

あなたは次の読書に繋がるような作品を教えてくださるのに、私は話題性もなく、とりわけ今回は「こんな本を読みました」という報告にとどめることしかできませんが、ご興味をお持ちいただけましたら嬉しいです。

次は私が待つことになります。近年短さが惜しまれるようになった秋を通してしみじみと親しんだ作品が、あなたに届けば幸いです。穏やかな小春日和とにわかに訪れた冬の気配に翻弄されるこの季節、どうぞお身体をお大事にしてお過ごしください。

                    敬具

                    冬青

こちらは、既視の海さんからのお手紙《「誰が正しいのか」よりも知りたいのは——トーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』、日高敏隆『春の数えかた』》へのお返事として書かせていただいたものです。

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