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往復書簡~最後まで持ちつづけていられるもの~

拝啓

7月も半ばにさしかかりましたが、いかがお過ごしでしょうか。久しぶりの地元での6月は、冬も夏も梅雨も共存しているような、不安定な月に思えました。幸い豪雨の被害はありませんが、今朝の、遠い地域での災害の報に触れて胸が痛みます。

あなたからのお手紙、そして『シャルロッテ』を読ませていただきました。

真っ先にお伝えしたいのは、自分自身でもうまく理解できなかった感情を、的確に書いて渡してくださったことへの驚きです。

向田邦子の見てきた景色をエッセイから読み取り、そのどれも知らない世界だったことがもの悲しかった。でも、その寂しいような感情の根底にあったのは、これらの記憶を書き残した人は、もう不在であるという実感でした。景色そのものの消失をうらやむ気持ちや、視野が狭いまま過ごしている自分への非難もありましたが、それは枝葉の話でした。「書かれた言葉ほど、書いた人の不在を感じるものはない」。まさにその通りでした。

エムナマエさんの『あなたの時間をありがとう』をお手に取っていただき、ありがとうございました。引用していただいた詩は、私も好きです。初めて読んだときから今でも心に響くものがあるのは、優しいお人柄で、冗談も交えたくて仕方がないんだろうなと思わせるお話好きな一面を見せつつ、作品からは「描かずにはいられない」という力強い生命力を感じ取れるからなのだと、あなたからのお手紙を拝読して感じました。

そのように最後の時間を費やしたシャルロッテの物語にも、心を動かされました。

彼女が、もはや家族や大切な恋人と再会して平穏な日常を送れるとは想像できないような、絶望的で閉鎖的な半生を強要されたこと。彼女のルーツ。たった一人の画家の人生と、生み出されるべくして残された作品の成り立ちに、このように迫る経験をしたのは初めてでした。物語の終盤、彼女もまた「言葉」を求めて、未完のまま終わらせるわけにはいかないという信念と、ナチスによって殺される日が刻々と迫っているという確信の狭間で、自分がしなければならないことをやりとげていく様を受け取りました。

この『シャルロッテ』を読み、差別や迫害の歴史に触れて思い起こした作品は、沢田猛の『カネトー炎のアイヌ魂』です。

川村カ子トは、アイヌ酋長の家柄に生まれた測量士で、北海道で数多の測量の最前線に立ったほか、カラフトの国境近くや朝鮮にも赴いています。そして、私の地元である長野県の伊那谷を走る鉄道、飯田線の敷設にも欠かすことのできなかった人物です。

沢田猛『カネトー炎のアイヌ魂』ひくまの出版,昭和58年

この本は、アイヌ系住民の生きたあかしを子供たちに伝えたい、という著者の願いから児童文学のスタイルをとっていますが、カネトが本州の人から受けた屈辱の数々が生々しく描かれています。前回ご紹介した作品と同様、こちらにも著者ご本人の直筆のサインが書かれていますが、もともとは私の本ではありません。最初の持ち主の名前と日付から、幼い男の子に1983(昭和58)年7月31日に手渡されたものだと推測できます。著者の沢田猛は新聞記者で、静岡支局に勤めたあと、この本ができた頃は東京本社にいたということなので、静岡、あるいは東京から旅して私の手元にたどり着いたのではないかと想像しています。

カネトの人生についてはもちろん、この作品の成り立ちについても、「ルポルタージュ カネトを招いた人びと」に丁寧に記されています。

かつて飯田線は日本の二大災害線のひとつで、落石や土砂くずれなど、大変危険な鉄道として知られていたそうです。そんな折、昭和25年に飯田保線区(旧三信鉄道、のちに飯田北線となり、当時は飯田保線区が運営していました)に転勤してきた本田和夫さんは、常々このように思っていたそうです。

こんな落石事故の多いところを、だれが測量したのだろうか。線路を敷いていったのは、どんな人びとだったのだろうか。おそらく命がけでやらなければ、いまのような土木機械のなかったころでは、とてもふつうの覚悟ではできないだろう。

『カネトー炎のアイヌ魂』

落石は年間2000件、その内10件が列車を止め、1,2件の脱線事故を起こす。昭和30年には電車を転覆させて30人もの死傷者を出す大事故に至ったこともあり、まさに悪名通りの危険な鉄道でした。

本田さんは、そのような保線で勤務する傍らで熱心に飯田線の歴史を調べ、ついに、駅舎の古びた資料庫で薄っぺらい本を手に取り、その文章から、北海道旭川から来たアイヌの測量班の存在を記した数行(!)を見つけたのです。これを皮切りに本田さんは、カネトにゆかりのある人たちと連絡をとり、カネトへの敬意は、カネトとそのご家族を伊那谷へ招くという形で表されました。カネトはこの日を、「私の人生にとって最良の日」と、顔をほころばせてくれたそうです。

飯田線は、私の祖母を乗せた鉄道です。娘時代に愛知県豊橋の紡績工場で働いていて、実家を行き来する際には何度もこの鉄道を利用したことと思います。私はというと、線路からは遠く離れた地域で育ったため、飯田線、特に天龍峡付近には全く馴染みがありませんでした。かくして、身近には感じられないものの、遠く過ぎ去った歴史だというにはあまりに身近な存在として、カネトというアイヌの測量士はあり続けています。

今回『シャルロッテ』を読み、また『カネトー炎のアイヌ魂』をご紹介するにあたり、私は迫害や差別の対象にされた人びとやその歴史を、これまでどう捉えてきたのか考えました。それは、同情心だったのではないか。ですが、本当はそうであってはいけないと思います。ユダヤ人であろうと、アイヌであろうと、人は正当に評価されるべきだということが、まず考えられるべきだと思います。

カネトが測量の仕事をした当時、人として、さらには優れた測量士として正当に評価された部分と、不当に差別された部分の両方が、この本には記されています。川村カネトアイヌ記念館には、生前のカネトが愛用していた測量器械が展示されているそうです。もしカネトにとって、測量の仕事が自身の誇りや生き甲斐までも奪ってしまうようなつらい思い出でしかなかったなら、それを展示しようとは思わなかったでしょう。もちろん、カネトの人生を象徴するのにもっともふさわしいという意味も強いと思いますが。

不当に扱われたことは言うまでもありません。明治時代、政府が北海道の開拓に全力を注いだ時期に生まれたカネトは、本州の子たちとともに尋常小学校に入学し、そのときから受けてきた屈辱は、作品を通じてもあげきることはできません。

実は、今年の2月に天龍峡を訪れました。電車には乗りませんでしたが、天龍峡ー千代間にて、通過する飯田線の車両を眺めました。門島駅に続く、ちょうどカネトが測量と建設工事を担当した区間です。線路に沿ってさらに南下すれば、測量班の拠点になった温田や、食糧難に陥ってはるばる買い出しに出かけなければならなかった水窪の地名も見付けることができます。ただでさえ危険な地形。片時も離れずに慕ってくれていた弟分の発病。命を奪われそうになるほどの、アイヌに対する侮辱と反発。あらゆる苦難の中、何年も踏みとどまって鉄道を開通へと導いた誇り高いカネトの歴史を、少しでも身近なものにしなければという思いが強まりました。

天龍峡ー千代

今回の往復書簡を通して、実現させようと心に決めたことが二つあります。一つはシャルロッテ・ザロモンの作品を観ること。二つ目は、飯田線を端から端まで乗車すること。触れられない景色も多いけれど、触れられる景色も残っているはずだと希望をもっています。

あなたはお手紙の最後に、「あなたの心を動かすかはわからない」とおっしゃっていました。私にとっては、初めて文章に触れたときから「志す人物像」のようなものがより明らかになり、目指す方向がすごい角度で上を向くようになった存在です。読みも浅い、思慮も浅い私ですが、読むことも書いて伝えることもたのしいのだと、学んでいきたいと思います。

日ごとに暑さがつのりますね。お身体お大事にしてお過ごしください。

                     敬具

                     冬青

こちらは、既視の海さんからのお手紙《書かれた言葉ほど、書いた人の不在を感じるものはない——ダヴィド・フェンキノス『シャルロッテ』》へのお返事として書かせていただいたものです。


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