書く気が起きない2
タイトル通り。
何も書く気が起きない。
調べてみたら、丁度1年前の8月にも同様のタイトルの記事を書いていたようだった。毎年夏バテでもしてるのだろうか。
何かを作る気力が起きない。
どちらかというと勉強したいなぁって思い始めてる。本を読んで、のんびりと過ごしたい。
27歳にして隠居したいテンションだ。
何かを達成するとか自分にとっては、どうでも良いことだったんだろうな、と思う。
本当にやりたいことなら即行動する人間が行動していないのだから分かりやすい話だ。
今は自分の中から何かを生み出すことより、経験して楽しむことに重きを置いている。
コンテンツを作るより、コンテンツを消費していたい。
思えば始まりは小学2年生。
後に親友と呼べるほど仲良くなる奴が描いた漫画を読んだのが、すべての始まりだった。
僕は最初から読者だった。
だからこそ、人を楽しませる何かを作れる人に憧れていた。
自分に何が向いていて、何が出来るとも考えず。
"好きなことで生きる"とは残酷な言葉だ。
好きなことが向いているとは限らない。
そもそも、本当に好きかどうかも本気で取り組んでみないと分からない。そして、本気で取り組める環境がないと、それも分からずに時間は過ぎていく。
何でも続けれていれば、それなりにモノになるものだ。そもそも、続けられる時点でそれなりに好きなものの筈だ。
ただ、その続けるという行為も、作業的行為と心理的行為に分類されるように思う。
作業的行為とは、何かを描いたり、スポーツをしたり、仕事をしたり、そういった視覚的に理解できるものを指す。
心理的行為とは、他者に気を配ったり、他者の視線が気になったりなど、視覚的に理解できない心掛けのようなものを指す。
って感じで定義したい。
僕は作業的行為は続かない。
でも心理的行為は続けられる。
日々意識して生きるだけだから。
作業として視覚化されると他人の評価に晒されるので続けづらいし、続いても他者の影響を大きく受けることになる。これでは非常に脆弱な状態になる。
僕は野球が好きだけど、野球チームに所属するとチーム内でのトラブルにも巻き込まれるストレスに晒されるから苦手だ。ただ、仲の良い人が出来るとその人に会う為に続けたりもする。
野球が好きで続けるのが理想だけど、なかなかそれは難しい。どうしても他人が絡むと自分一人の気持ちでは動けない。
このnoteだってそうで、批判的なコメントとか来たら、多分書かなくなる。文章を書くことが好きというより、ただ自分の気持ちの吐き出し及び気持ちの記録の為に書いているだけだから。
惰性では続けられない。
好きという気持ちが作業的行為には不可欠。
僕は情熱的に好きなものはない。
オタクと呼べるほど何かに夢中になることがない。
強いていうなら自分を成長させることくらいだ。
勉強の為、本を読んだり新しいことに挑戦したり、健康の為運動したり規則正しい生活をしたり。
そういったことは継続できる。
作業そのものが目的になることはなくて、その背景にある想いを継続することはできる、のように。
中3の頃に描いた
ずっと大切な人と笑いあっていたい
という思いは13年経った今も変わらず持っている。でも、その手段はコロコロと変わっている。
正直何だっていい。
今は書くという行為に対して、何も見出せていないだけだ。笑いあえる未来に繋がるとも思えていないし、自分が望む成長にも繋がると思っていない。
というか考えることに疲れたのかもしれない。
1000文字を超える文章を書きながら思う。
僕は昔から作文が嫌いだった。
そりゃ苦痛だよね。
ただ、現実が楽しくなくて物語を空想していただけだった。親友と思えるほど心を許していた奴が抱いていた夢を叶えたいとか思っていた時期もあったけど、そいつと8年ぶりに再会した途端、ヤル気は落ちてしまった。
新たな目標が見つからなくて、昔の夢を、ずっと見ていただけだった。
そんなことを今更思う。
22歳のころに、もう5年も前に、僕の夢は、一度叶っていたんだよなぁ。そら、ヤル気も出ない。
満たされているのが日常になっていたから、気づいていなかったのだ。これ以上何を望むのか。
あ、でも心を許せる身近な人は欲しいなぁ。
何でも言い合えるような。
それは今の夢の一つかもしれない。
思ったことを話して「わかる〜」って言ってくれる人がいるのは幸せなことだ。
そんな人と人生を生きれたら、
また笑い合える日が来るだろうか。
その為には人として成長しないとね、もっと。
頼りがいのある大人の男になりたい!
、、、とは思わないけど、自分と関わった人が幸せでいられるように。
まだまだ、やれることがある。
その為に自分の時間を使おう。
うん、なんかしっくりくるなw