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【短編小説】研究者と助手と、イノシシと恋
第1章 都会への誘い
1. 母の心配
「おまえ、いつまでこの田舎にいるつもりなの? そろそろ都会で仕事を見つけたらどうなの」母親は心配そうに息子の背中を見つめた。「なにそれ、どうして?」息子は振り返った。
22歳にもなって、交際相手もいない息子の将来を母親は心配していた。山のふもとにある我が家は、近所にほとんど誰も住んでいないため、女性と出会う機会はほとんどなかった。一般的に若い男ならば、都会に仕事先を見つけて家を出ていくと思うのだが、どういうわけか、息子はいつまでも家にいた。母親の夫はずいぶん昔に他界しているので、息子にとっては家の中に圧力を感じていないのもあるのだろう。そこで母親は、嫁探しにいけ、都会で仕事を探しなさいと、ことあるごとに繰り返していた。
息子は、我が家の畑で働いていた。息子は若く、体がよく動くので、母親よりも働きが良くなっていた。でも、ここ数年、近所に人が少なくなってきて、野菜の売れ行きが怪しくなっている。母親の時代は小さな農家生活が成立したとしても、息子の時代までは成立するとは思えなかった。
不意になげられた母の言葉に息子は嫌な気分になっていた。自分の存在を否定されたように感じて腹を立てたのだ。
2. 研究者の訪問
「すみません。突然お伺いして申し訳ありません」突然、玄関のほうから、聞き覚えのない声がした。母親は誰だろうと言う顔をすると、息子は心当たりないという顔で返事をした。
母親は「どちらさまですか?」と小柄で白髪の男を見た。白髪男は「突然すいません…」とペコリと頭を下げると、話し始めた。私は微生物の研究者で、山の微生物を調査しに来たのだという。
特殊な研究をするらしく、数ヶ月間の滞在が必要になる。近くに宿泊する施設もないので、ちょっと離れた所に小屋を作らせてもらいたいという。知らない小屋ができて、知らない男が住み始めて、山をウロウロしているとなると、ご迷惑でしょうから、ご挨拶に来ました。とのこと。
「はあ、どのくらいの期間研究とやらをするんですか?」母親が尋ねると、「数ヶ月になると思います」白髪交じりの小柄の男は再びペコリと頭を下げた。「よろしくおねがいします」笑顔で顔を上げた。
母親は突然のことで気持ちの整理はつかないけれど、小さな声で「よろしくおねがい致します」と呟いた。大丈夫だとは思うのだが、不気味なところがあるので、息子にしばらく家にいてもらいたくなった。
「おまえ、しばらくは家にいてくれ」
「いいよ。じゃあ、家にいるよ」と息子は楽しそうな顔をした。やはり単純な暮らしに飽きていて、珍しいことが起こったことを新鮮に感じた。それともう一つ。自分の存在を肯定されたように感じたからだった。
第2章 研究者と助手
3. イノシシの夕食
数日後、研究者が訪ねてきた。「山でイノシシ捕まえたんです、一緒に食べませんか?」白髪で小柄の研究者はイノシシとの武勇伝を冗談をまじえて上手に話した。
研究者の小屋の前で火を起こし、イノシシを囲んだのは4人。母親と、息子と、研究者と、研究者の助手だった。
助手はまだ学生で明るい女性だった。研究に必要な物資をときどき大学から運んできているという。
運がいいのか悪いのか、息子と同い年で、二人は相性がよかった。
4. 母の懸念
母親は2人の関係をあまり歓迎していなかった。都会での息子の定職が決まらないうちの恋愛関係では到底結婚には結びつかないからだ。
息子にはまず、定職についてもらいたい。恋愛はそれからでいい。
5. 助手の気持ち
研究者の小屋に寝泊まりしているのは研究者だけだった。助手はそこに泊まることはなく、日が落ちる頃には車に乗って都会へ帰っていく。
母親は助手の女性に結婚についての意識を確認してみた。「結婚するつもりはあまりないです」とのことだった。
なぜか、小さい声で「すいません」と言っていた。
第3章 変化の兆し
6. 息子の決意?
何日かして息子と助手がずいぶん 親しくなった頃に息子は「仕事探しに行ってくる」と調子のいいことを言って助手の車の助手席に乗って行ってしまった。あれは仕事を探しに行ったんじゃなく遊びに行ったんだろうな、と母親はため息をついた。
7. 研究の終了
研究者が来てから3ヶ月が過ぎ、研究は終了した。
「どうもお世話になりました」研究者と助手は挨拶に来ると笑顔で立ち去っていった。母親の隣に立って玄関で見送った息子は助手に小さく手を振っていた。スマートフォンで連絡を取り合っていることは分かっていた。
8. 母の気づき
母親はひとけのない静かな畑を眺めた。
みんな、好きなものに、笑顔になる。息子はあの助手のことが好きなのだろう。助手も息子のことが好きになってくれたようだ。研究者はとても長い間、研究が大好きなのだ。みんなの笑顔がよみがえる。
私は笑顔になっていない。いったい何が好きなのだろう。
息子を都会で働かせようとしてきたけれども、それは私が息子を好きだからなのだろうか。
分からない。
息子の好きなことをやらせてあげるのは、いいに決まっている。どうしてそんな普通のことに気づかなかったのだろう。
9. 夫への思い
青空を見上げた母親は心に気持ちよい風を感じた。今日は夫の墓地に向かおう。
お酒が好きな夫のために、ワンカップを持っていく。裏山にある墓は近いのに、最近は足が遠のいていた。
でも今日は夫の意見を聞きたい。夫婦ってなんだったのか思い出したくなった。
(お わ り)