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【短編小説】20年越しの再会、文房具店で見つけた娘のサイン
「私は何をやってしまったのだ…」
ぼんやりしていて、自分の名前を書いてしまった。どうしよう…
文房具屋のペンコーナーには試し書き用のサンプル用紙がある。ペンの書き心地をチェックするためのものだ。一般的には、くるくると円を描いたり、「あいうえお」などと書かれている。
「永」という字が書かれていることも時々ある。この文字には「トメ」「ハネ」「ハライ」という筆記の技術がすべて含まれているからだ。
私もよく試し書きをするが、特に書くものを決めていない。気分のままにクネクネした線を引いたりする。アルファベットを書くこともあるし、気が向けば簡単なイラストを書くこともある。
ところが今日は徹夜明けの不注意で、自分のフルネームを書いてしまった。まるで選挙の立候補者みたいに、私は一体何をやっているのだ。
名前を書いてしまった用紙を破って持ち帰えろうかとも思ったが、たとえ売り物ではなくてもお店のものを持ち帰るのは気が引けた。
私は自分の名前の上に何度もペンをはしらせて、完全に塗りつぶした。
新発売のペンは書き心地がよかったので購入を決めた。
「ありがとうございます。駐車場のご利用はありますか?」
レジの人に聞かれた。お天気がいい日だったし、家から近いので、歩いてきていた。
「大丈夫です」
帰路についた。新しいペンを買った楽しさで、気分は軽かった。
*
私は漫画家という仕事の関係上、徹夜をすることも多い。
文房具は多く必要なのだが、仕事に使うものだけではなく趣味として文房具を買うこともある。
文房具メーカーの商品開発には常に目を配っていて、デザインにはあまり興味がないのだが、機能面での開発があると、必ずチェックする。そして行きつけの大きな文房具店に足を運ぶのだ。
*
仕事が続いている。締切が近いのにアイデアが浮かばない。編集者から何度も問い合わせがくる。
気分転換にコーヒーを飲んだ、アイデアは出なかった。シャワーを浴びた、それでもアイデアは出なかった。もう、散歩するしかなかった。
だから文房具店にやってきた。
サンプル用紙の左端に「こんにちは」という小さな文字が目に止まった。サンプル用紙ではときどき見る文字だった。
中央付近は空白のままにして、用紙の右端に小さく「こんにちは」と書き、小さな顔を書き添えた。自分をイラスト化した顔だ。小さな遊びだった。
平日の日中の文房具店は空いている。
*
文房具店の通路を歩いていると、きのう届いた手紙を思い出した。20年前に離婚した妻からの手紙だった。娘が結婚するから、もう養育費を送らなくていいとのことだった。
*
5歳の娘が私に残る最後の娘の記憶だ。
「お父さんどこに行くの?」
家を出る日、玄関に見送りにきた娘が、引き止めるように手を繋いできた。
「ちょっとそこまで、すぐに戻るから」
それが最初で最後の嘘。部屋の奥から妻が娘を呼ぶ声がした。
娘は絵を描くのが好きで、よく教えてあげていた。
漫画家の私が編み出した、格好の良いチューリップの書き方を教えてあげた。
娘は喜んで、季節を問わずいつでもそのチューリップを書いていた。
いま娘は25歳。どうなっているのだろう。
私は20年前の嘘を謝れるだろうか。結婚をお祝いすることは許されるだろうか。
そもそも、父親を不在にしたことを償えるわけがない。
*
気づくとまた、サンプル用紙のところに戻ってきていた。
サンプル用紙の右端を見て息を呑んだ。
私が書いた小さな顔の横に、あのチューリップが書いてあったのだ。
私が編み出したチューリップはどん底の苦労時代のことで、出版されていないから、このチューリップを書くのは私以外、一人しかいない。娘だ。空いている文房具店に人影はない。
店の外に小柄な女性の背中が見えた。女性は振り返り、こちらを向くと、スッとおじぎをした。
25歳の娘。
私は言葉はおろか足も前に動かなかった。
娘はこちらに横顔を残しつつ、歩いていってしまった。
*
家庭を舞台にした漫画を書いてほしいと、以前から編集者に頼まれていたが、なんとなく、気が向かないよと、断り続けていた。でも、今日は気分が変わった。
「あのテーマ、やっぱり書いてみるよ」
私は編集者に言った。
「本当ですか。保証します。ぜったい売れます」
と編集者は嬉しそうな顔をした。
打ち合わせを終えて編集者が帰宅すると、私は漫画作業台に座り、一番上の引き出しを開けると、文房具店から持ち帰ったサンプル用紙がそこにあった。「こんにちは」の文字。チューリップの絵。
娘は20年間、あのチューリップの書き方を忘れずにいてくれた。
(お わ り)