世間は虚像
「そんなの、私はいいけど世間が許さないと思う」
と、世間のみんなが一斉に思っているせいで、結果的に許さない世間が形成されている。
「私はいいと思う」とだけ言う人が集まれば、許す世間になったはずのものも。
「みんなが」を、みんなで作っている。
“世間”というワードを聞くと、なんとなく厳しくて硬いものというイメージがある。
でも、世間は厳しいって誰が最初に決めたんだろう?
世間だから厳しいんじゃなくて、色んな考えの人が集まった結果、偶然平均的に厳しめのほうに寄ったものが世間ってだけだよな。
何かを「良くない」と思うなら、わざわざ世間なんか出さずに「私は良くないと思う」と言えばいいだけ。
自分で考えても答えを出せないこともあるし、自分の意見と一般の意見を分けて表現することも時に大切なので、一概には難しいけど。
例えば「世間はどうか知らんが私は良いと思う」だと、後押ししてるような印象になる。順序を逆にして自分の意見を後に述べると、急に責任が自分に乗しかかるような。
じゃあ「世間はどう思うか」で締める述べ方は、責任を世間に持たせたい心理の現れってことになる。
要するに、「世間はこう思うだろう」がたくさん集まることでできるものが世間なら。
誰の声でもないものこそが最も大きな声であり、それが間違っていたとしても、誰から発されたものでもないから、みんな知らんぷり。
だから、世間の言葉を信じて失敗しても「世間のせいにするな」としか答えられない。
“世間”って何だろう。
自分は、いわゆる多数派=世間だとふんわり捉えていたけど。
昔から、その正体不明の感じがいつも不気味で怖かった。見えないものの大きな力を感じていた。
けど「世の中のごく一般的なフツーの考え」なんてもの、本当に存在するんだろうか。
もしそれが、無根拠かつ無責任が群れて形作られた多数派だとしたら、多数派とはまるで虚像だ。
連帯責任ではなく、責任転嫁の連帯。
誰も考えを持ってないのに、全体ではさも有るかのような姿をしている。
「言葉に重みが~」とよく言われるが、“重み”とは質量のことなので、すなわちどんなに数が集まったって質量が存在しなければ0グラム。
砂よりも軽い楼閣。
なんだ、世間って大したことねえ。ワンパンで倒せる。
……とか言ってみたかったけどな。
まあ実際の世間は、もう少し責任の濃度があるだろうと思う。
自分も世間の世話になっているし、自分自身もどこかでは世間の一部にならざるを得ない面がある。
しかし疑わせてくれ。
一体世間のどれほどの人が、“私は”の主語でものを語れる?
どれほどの人が、“私”と“みんな”の境界線を知っている?
では自分は、とここで思う。
真っ先に疑うべきはそっちだ。
みんなはどうか知らないけど、私は“私”をどこかで丸投げしているかも知れません。
そして、上の一文を書く時、初めは“私も”と書いてしまいました。後から訂正しましたが、つまり私はみんなとの境界線を知っていると言うには未熟なようです。
さあ、みんなは。
仮に世間が虚像であると考えた時、自分は誰のものでもない言葉や価値基準を指針にして生きたくはないな、と改めて思う。
そして、誰かに何かを問われる機会があるなら、答える力がある限り、誰のものでもない価値基準ではなく、たとえ浅はかでも自分自身が思考したものをなるべく答えるようにしたい、と思う。