氷のホテル【ホラー怪談小説】
どうも、伊集院です。これは20年ぐらい前のことなんですが、今でもはっきり覚えています。デブ仲間の内山君、まいうーの石塚さん、それから数人のスタッフというメンバーで香川県へ行きました。讃岐うどんの美味しいお店が高松市内にあるというので、僕らはそれの取材に行ったのです。 そして、当日、8月、猛暑、現地のホテルを予約して取材の仕事を無事に済ました僕らが、ホテルに到着したのは、夜の7時頃だったんですけど、ホテルの周辺は何もありませんでした。仕方がないから、仲間と相談の上、一旦、荷物を部屋に置いて、それからみんなで少し離れた飲み屋に打ち上げに行こうということになりました。そうして15分後にロビーで待ち合わせることにして、めいめい部屋に向かったのですが 僕は自分の部屋に入った瞬間から気味の悪さを感じました。空気がいやに重苦しく妙に澱んでいたのです。いや、異常なのはそれだけではありませんでした。その日は8月の夏真っ盛りで、蒸し暑いはずなのに、部屋の空気は底冷えと言ってもいいくらいにひんやりしていて汗かきの僕は、珍しく汗一つかいていなかったのです。その日、黒いTシャツを着ていたのですが、昼間の労働で汗まみれになったその黒いT シャツが この異様な寒さによって、すっかり乾いてしまい塩で真っ白になっていました。もしやホテルの方が気をきかせて冷房をつけたのかなと思いましたが、壁の空調のスイッチを見てもオフになっていました。 僕は最初、待ち時間まで15分もあったから、その時間を利用してシャワーでも浴びようかなと考えていましたが、けれども、もうこれ以上この部屋にいたくない、といたたまれない気分ですぐロビーへ降りてみんなを待つことにしました。
その夜の打ち上げは、とても盛り上がりましたよ。周りにほとんど何もない一本道の国道沿いにポツンと一軒だけある居酒屋に大勢の人が集まって、みんなどろどろになるまで酒を飲んで、あるいは錯乱した者の如く歌って踊って、ワイワイ、ガヤガヤとね、その店は普段タレントが来るような店ではないらしく店主からしきりにサインをねだられるばかりでなく、他のお客さんも一緒になって騒ぎまくって、僕らも調子に乗って芸能界の裏話をところどころ嘘を交えて物語り、内山君なんて何を血迷ったのかパンツごとズボンを脱いで、小さな尖ったちんこを見せびらかせて、若い女の子の客たちに恐怖と戦慄を与えていました。
打ち上げでぐでんぐでんに酔っ払ってホテルに帰ってきたのは、夜中の12時近くでしたが、僕は何だかまだ食い足りなかったので、フロントに寄って、何か食たべるものはありませんか、と尋ねたら奥から現れたフロントのおじさんはもう、深夜ですし、厨房のスタッフも帰ってしまったのですみません、と答えましたが、しかし、ふと思い出したように、あ、そういえばまだ カップラーメンが1つだけ残っていました、これはちょうど小腹が空いた時のために、残しておいたものなんですが、よかったらどうぞ。僕はその時、腹が減って仕方がなかったので、それでいいから後でカップラーメンを僕の部屋まで持ってきてくれと頼みました。すると、おじさんは最初、笑いながら、はい、承知しました、と言ってくれたのですが、僕の部屋の番号を聞いた途端、ガラリとから顔つきを変えて、
「あの部屋のお客さんですか…」
顔面蒼白でした。 そして、で、では後でお運びいたしますので、し、しばらく部屋でお待ちください、とどもり、どもりそう 言い残して奥へ行ってしまいました。
今思い出したらおじさんの挙動は、異常とも言っていいくらい不自然なものでしたが、その時の僕は、既に泥酔に近い状態でしたので、あまり深く考えずそのまま部屋に戻ってしまいました。そして、しばらく部屋で待っていたらおじさんがカップラーメンを持ってきてくれたのですが、これまた、おかしなことにトントンと一度、部屋の戸をノックしたきり、中に入ってこないのです。どうしたんだろうと思いながらも僕がドアまで行って開けてやったら、おじさんは、隙間から青い顔を半分だけ覗かせて、
「お待たせしました。冷めないうちにどうぞ」
とせかせかとした口調で言ってお盆ごとラーメンを床に置いてそそくさと帰ってしまいました。
後になってみればおじさんの不審な態度の原因もわかるような気もしますが、何せ、僕はもう酔漢で、意識もぼんやりとしていましたから、おじさんの不可解な言動の謎にはあまりこだわらずカップラーメン食ってもう寝ることにしました。
けど、さすがに電気を消して寝るのは、気が引けるから明かりをつけたままベッドに仰向けになって掛け布団を胸のあたりまで引き寄せ、さあ、寝るぞと目を閉じましたら不意に冷たい気配を感じました。それは僕の目線の先、天井から流れ落ちてくる気配のようでした。おや?と思って目を開いて天井へ視線をやった僕は、思わず目をみはってしまいました。
女の人でした。歳は20歳前後でしょうか、顔の青白い、死人のように瞳のぼんやり濁ったその女の子が、長い黒髪を逆さまにしてスルスルと天井から這い出てきたのです。そしてその女の子は、唖然としてる僕の鼻先まで顔を近づけると、唇を細くすぼめて、ふうっと息を吹きかけてきました。氷のように冷たい息が、僕の右頬にひんやりと広がり、その冷気が体全体を覆いつくす頃には、僕の記憶は完全に途絶えました。僕は気を失ってしまったのです。
これは、後で知ったことですが、 僕が泊まったホテルは、幽霊が出るということで有名なホテルなのだそうです。このホテルで自殺する人がよくいるそうなんです。 あの晩僕が見た女の子も、そんな自殺者の亡霊の一人だったのかもしれません。