「イエスタデイをうたって」覚書の3
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本稿は,「イエスタデイをうたって」(以下「イエうた」)に関する覚書であり,それゆえ同作のネタバレを多分に含みます.
閲覧に際しましては,その点について十分ご注意のほど,よろしくお願いいたします.
イソップ寓話の「虚飾で彩られたカラス」,ギリシャ神話の「アポロンのカラス」,最近では,道尾秀介の「カラスの親指」などもありますね,カラスのイメージといえば,虚飾に嘘つきおまけに詐欺師とどうも散々です.
そんなカラスを飼うエキセントリックな黒ずくめの女が,「イエうた」ヒロインである野中晴です.
原作「イエうた」は,そんなハルとリクオを中心とした群像劇であるわけですが,その二人の序盤の関係性には,何かえも言われぬ切なさと味わい深さがあるように思います.
片や「やりたい事無いんだよ」(1巻23頁)として就職活動を真面目に行わず,大学卒業後にコンビニバイトで日銭を稼ぎつつ「ヒクツになってる」(1巻85-86頁)フリーター,片や「テキトーにちょーしこいて人と話合わせて,のらくらといい加減に生きてきた」(1巻97頁)ものの,「一つくらい本当の事通したかったのかも」(1巻98頁)として高校を中退した同じくフリーター.
いい加減で逃げ腰な生き方と,自身のナイーヴさ・屈曲した生真面目さ(1)との間に折り合い付け難く,「社会のはみ出し者」の立場に落ち着いた二人は,逃げ場を断った恋愛を通じての「自己変革」を試してみる「同志」(1巻222頁)であって,「イエうた」序盤のハルとリクオには,ハルの恋愛感情に基づく紐帯があるだけでなく,社会の隅で孤独な身を寄せ合う一対のカラスの趣が感じられます.(2)
ただ,そのような「同志」としての関係性は,物語の進行につれて希薄化していくようにも思われます.
人も関係も揺蕩いながら移ろいゆく「イエうた」ですから,その傾向にはっきりした流れを求めるべきではないとも思われますが,強いて転機を一つ挙げるとすると,「少年達と浮遊青年」(3巻)において,リクオが後の正社員雇用(5巻「恋人たちの予感」)へと繋がることとなるギャラリーでのバイトを開始したことをやはり挙げるべきでしょう.
また,同じ話の中で,ハルが高校中退という自身の過去に区切りをつけてもいます.
「同志」としての関係性の決定的な変容が象徴的に描かれるのが,7巻の末,失恋を悟ったハルが右足を挫くシーンであると言えるでしょう.
公園で「ケガして死にそー」(1巻49頁)だったところをハルに拾われ,「ケガは治ったんだけど足があまり動かなく」なり,「もう野生には戻れない」(4巻52-53頁)のが,ハルの飼うカラスのカンスケでした.
リクオと榀子が結ばれたことを知って,「友達以上だった人が友達未満になった」と感じつつ,「友達」として関係を継続する可能性に縋り,「何も失くしてない」(8巻41頁)とするハルでしたが,結局は「何も失くしてないなんてウソだ」「もはやリクオはあたしにとって,この世にいない人同然なんだ」(8巻216頁)と,以前のような関係には戻りようもないことを認めざるを得なくなります.
そんなハルが,失恋を知ったその場で足を挫いているというのは,なんともよくできた表現です.
「(榀子と浪,雨宮とみもりという幼馴染の2組のように)同じような関係構図を同じ物語のなかで複数出すのが多分好き」(11巻294頁)なのが「イエうた」原作者の冬目景であり,実際,登場人物の造形と配置には非常に狙い澄ましたものが感じられる一方,「キャラクターそれぞれの変化は,とても自然で有機的で作為的な感じがしない」(afterword 82頁)のが漫画「イエうた」という作品です.
そんな本作において,ハルの捻挫というこの出来事は,非常に露骨な「変化」の象徴表現であり,逆にいえば,このシーンは露骨さを厭わず強く演出すべき転換点であるという原作者の意思も窺えるようで,とても面白いなと思います.
ただ,原作「イエうた」が基本的に「作為的な感じがしない」作品であるとはいえ,「作為的でない」と言うならば,それは嘘になるでしょう.
それは「人が紡ぐ物語である以上,作為的でないなどということはありえない」などといった原理的な話などではもちろんありません.
原作「イエうた」をよく読んでみると,話やシーンの演出に非常な上手さを感じさせる点が実は少なくなく,最も有名な例としては,藤原監督が最終話オーディオコメンタリーで言及してもいる,ベンチをめぐった対比演出が挙げられるでしょう.
アニメにおいては,ハルの実家前のバス停においてハルとリクオが出会うわけですが,そのシーンの下敷きとなった原作の対応箇所においては,「ベンチ」のみならず「タバコ」も非常に効果的な舞台装置として機能しており,せっかくなので,ここでは原作に則った話をします.
1巻「はみ出し者は自己改革を目指す」Scene4で,ベンチに腰掛けているリクオに対し,ハルが「タバコちょーだい」と声をかけ,(描写はないものの,おそらくは)勝手に隣に腰掛け,榀子にフラれたという趣旨のリクオの発言にはタバコを咥えたまま無言で目を丸くしています.
11巻Scene12では,ベンチに腰掛けたリクオの方からハルに「(タバコを)一本やろうか?」と申し出,「あたしも禁煙中なんだから誘惑しないで」と断られます.どうも俯き加減のリクオですが,「(雨宮に)フラれちゃった」とするハルの発言を耳にするとふっと目線を上げるのがこの男です.「立ってないですわれば?」というリクオの提案を受けて初めてハルはベンチに腰を下ろし,作品のクライマックスを飾る2人の対話が始まります.
こう並べてみると,非常によくできた美しい対比的表現なのですが,11話Scene12におけるこの一連の会話は,1巻におけるカウンターパートを意識せず,それ自体で見ても,「自然で有機的で」味わい深い良いシーンです.
タバコを勧めてみるも断られ,ハルの「フラれちゃった」という言葉を聞いて思わず目線が上がり,座るよう促してみたところ応じてくれた,という一連の言動にリクオの心の機微が余す所なく表されているようで,非常に素晴らしい.
「良い」シーンを味わっていると,そこに作劇上の「上手さ」「美しさ」もまた見えてくるといった塩梅であるところは,往々にして「良さ」が「上手さ」に下支えされていながら,後者が前者を抑えて出しゃばってくることがない,上手さに逃げない,というバランス感覚は,「イエうた」の非常に優れた点であると思います.
以下註
(1) 特にハルについて.原作において,高校を中退済みであることもあってか,未成年飲酒・喫煙という行為自体にはさしたる抵抗を見せないハルですが,高校在学中にバーでバイトをしていた時には「お酒,一滴も飲まなかった」(1巻174頁)というのはとてもきれいだと思います.なお,アニメのシナリオでは,ハルは一度も未成年飲酒・喫煙をしていません.これは,今日の放送コードの都合による改変であると第一に考えられる一方,演出上の意図が介在しているとも感じられ,私の目からは判断つきかねるところではありますが,少なくとも,この原作の味わいがアニメでは再現されることはなかったという点は,今日原作を通じて感受できる趣に一層の深みを与えてくれるように思います.
(2) 註(1)で触れた(未成年)飲酒・喫煙に関しても言えることですが,「イエうた」が連載を開始した1998年当時には,所謂「おおらかな時代」の気風が残っていたのではないか,それを意識して作品を描いたのではないか,と感じられる節は原作の随所にあります.冬目景(1970-)本人も「大学時代に感じた空気感は反映されているんじゃないでしょうか」(afterword 75頁)と述べています.そして,フリーターという生き方もまた,今日とは違った受け止められ方をされていたのではないか,そうも感じられます(作品冒頭で,榀子が「今日から学生じゃないんだし,このままバイト生活続けてても発展しないじゃん」(1巻19頁)などという言い方をしているのは面白いですね).少し気取った言い方をすれば,フリーターとしてのハルとリクオを描く物語としての「イエスタデイをうたって」は,今日の私たちにとってのひとつのイエスタデイを歌い上げる作品であるのかもしれません.一方,恋愛漫画という側面を見ると,「同じ人を想い続けるのは難しいけれど,その好きという強い気持ちを,ずっと持ち続けていたら素敵だなと思って」(afterword 42頁)という普遍性の高い構想から生まれた作品でもあるので,面白いなと思います.もっとも,時代の移ろいを語るのであれば,このような単純な世代論・年代論は昨今急速に求心力を失いつつあるように見えることは付言しておかなければならないでしょうが….