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立原道造.譯詩兩首

  一年又好快就過去了,感覺自己一直在虛度光陰……所以,今年最後的兩篇翻譯文本我選了相當早夭的優秀詩人——立原道造(1914-1939)的作品,得年僅24。那個年代的疾病殺傷力實在可怕(我恨你肺結核!)這次選的兩首詩,一首是後期未完成的草稿,一本出自於他的代表作詩集《萱草に寄す》(1937),不過其內容都看得出立原對死亡與夢的交織、面對命運的坦然與留戀。
  年僅24就逝世的立原道造,不論是詩也好、建築也好、戀愛也好,還有好多好多的事情來不及做完,就被疾病奪走了生命。如果我知道自己也活不久的話,我還能這麼怠惰嗎。必須好好警醒自己才行。否則是對不起養育自己的一切,也對不起那些本應活下去的有夢想的人。
  因為一定翻譯得不是很好,僅供參考,有能力的請以原文為主,並附上合唱曲的影片讓大家能在閱讀的時候因為旋律能更加融入詩人想傳達的情感。

南国の空青けれど
あふれて やまず
道なかばにして 道を失ひしとき
ふるさと とほく あらはれぬ

南國天空雖湛藍
滿盈的淚 卻止不住
在歸去的途上 迷途之時
故鄉 遙遠地 浮現了

辿り行きしは 雲よりも
はかなくて すべては夢にまぎれぬ
老いたる母の微笑のみ
わがすべての過失を償ひぬ

終於抵達的終點 比雲還要
轉瞬即逝地 全混淆在了夢中
唯有老去母親的微笑
能夠彌補我一切的缺失

花なれと ねがひしや
鳥なれと ねがひしや
ひとりのみ なにをなすべきか

請成為 花朵吧
請成為 小鳥吧
孤身一人 還能成就什麼

わが渇き 海飲み干し
かなたには 帆前船 たそがれて
星ひとつ 空にかかる

我的乾渴 吞光了海水
遠方 有帆船 於黃昏之中
有一顆星 掛在天空中

南国の空青けれど(南國天空雖湛藍)〉

注)南国=秀でた建築家でもあった道造は大学卒業後、教授の推薦を得て建築事務所に勤め始めるが一年程のち胸を患い休職し静養。11月下旬 "南方の豊穣を夢見て" 長崎への旅に出るが、十二月半ば、喀血し寝台車で帰京するも危篤となり、翌3月29日、療養先で亡くなってしまう。享年26。
(南國=另有優秀建築師身份的道造大學畢業之後,在教授的推薦下入職一家建築事務所,然而僅僅一年後,道造就因胸部疾病休職靜養。十一月下旬因「夢見了南方的豐收」動身前往長崎旅行;又十二月中旬因咳血而乘坐臥鋪火車回東京(返鄉)但病情變得危急。翌年3月29日,在療養院中去世,得年26歲。)
- 出典収録の年譜及び解説より抄録
本文出典:土 風 空: 立原道造「南国の空青けれど」 (return-2-dust.blogspot.com)
※24.04.01編按:不知為何這邊寫26讓我當初被誤導,是虛歲嗎?不論如何以上除忠於原文翻譯者,已皆改為24。

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

夢總是將我帶回過往 那山邊寂寞的村莊中
有風吹水引草
有蟋蟀的唧啾未曾停歇
在逐漸寧靜了的午後林道上

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

那如此晴朗的青空中 陽光亮麗 火山正沉睡著
——而我
將所見的一切的 島嶼 海浪 岬角 日光與月光
即使知曉無人傾聽 仍繼續訴說……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢 於此 將不再前行
當我 嘗試忘卻一切思念
連已經忘卻的事情 都忘卻了的時候


夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

夢 是在深冬的追憶中凝結了吧
然後 它將打開門扉 在寂寥之中
踏著群星照耀的道路而去吧

〈のちのおもひに(在將來的思念中)〉
—《萱草に寄す(寄於萱草)》

  「のち」這個字不清楚是哪個意思,不過根據古文辭典
1.のち。あと。以後。
2.未来。将来。
3.死後。後世(ごせ)。来世。
不知道是哪個,但如果有3的暗喻在,那真的有夠殘暴的……
  另外,水引草是一種具有紅白小花的春蓼屬植物,其線狀與色彩讓人聯想到水引(みずひき)的形象。詳細可見下文。

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