エッセイ 約束
奈良市に「ほんの入り口」というとても好きな本屋さんがある。(そしてとてもお世話になっている。)なにが好きって、もちろん置かれている本も興味深いものがたくさんあるのだけれど、そこで開かれるイベントがなんだかとてもおもしろい。
様々な物事の「入り口」をテーマにしたイベントが催されるのだけれど、先日はそのうちの一つ、「作文の入り口」というイベントに参加した。
そのイベントは、用意されたお題くじを参加者それぞれがランダムに引き、引いたお題を受けて文章を書く、というもの。なお、書く時間は5分間。この5分というのがまた、短いようで……とまぁ、イベントのことについて書き出したら止まらないけれど、今これを書いている目的はリベンジなのだ。その日はお題に対して満足いく内容の文章を書けなかったのがなんだか心残りで。ちょっと、あらためて書いてみようと思う。お題は「約束」。
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「約束」と聞いてまず浮かんだ言葉は「お金」。
それ以外にあまり何も浮かばない。と言うのも、約束って最近してるのだろうか。「約束な!」みたいなこと、あえて口にすることがない気がする。どちらかというと、「約束」でイメージするのは子供時代かもしれない。よく内緒話をして、「秘密やで。約束な!」と言ってみたり、「明日あのマンガ持ってきてや。約束な!」とか。だけど考えてみれば、大人になった今だって、友人と「次の日曜日に遊ぼう」と約束するじゃないか。「今度会う時にあの本持ってくるわ。」というシチュエーションだってある。でもなんとなく、「約束な!」とはわざわざ言わないから、その交わした言葉が「約束」であるという認識が薄い気がする。それってなんなのだろう。
今ぼやっと思いつくキーワードは、"大人の遠慮"。
「約束ですよ。」とわざわざ念を押すように言っては、相手を信頼していないようで失礼になるかもしれない、大人にはそういう遠慮があるのではないか。それに、大人になれば良くも悪くも知恵がつくし、「約束ですよ。」とは言わなくても、もっと別のもっと巧みな言い方で、失礼のないように念を押すことができる。
一方で逆であるとも言える。わざわざ念を押さなくても、大人として信頼しているから「約束ですよ。」とは言う必要がないのだ。
そうやって、大人の頭の中では「約束」という言葉としての認識は薄れていっているのではないだろうか。
しかしながら実際には、大人の社会というのはその見えない「約束」と見えない「信頼」で成り立っている。その例の最も身近なものの一つが、「お金」だろう。
「お金」というしくみは、約束と信頼で成り立っている。でなければ、ただの金属の塊か紙切れなのだから。「『1,000円』と印字された紙には、これだけの食料と交換できる価値がある」その約束をみなが信頼して初めて、1,000円札で食料を買うことができるのだ。
人との繋がりが薄れてきている感覚がある昨今。それに比例して人への信頼も薄れてきているように私は感じる。何につけても、注意書きや契約書がいる時代に、どこか無機質な肌感覚を覚える。
でもあらためて、見えない約束と信頼を柱に運用されている「お金」を思うと、まだまだ人間は人間なのだなと少し温度を感じた。
しかし今は、カード払いやスマホ決済が主流になってきていて、仮想通貨なる言葉も出てきた。それらについては、見えない約束と信頼だけでは危うい気がするのは、私が古い人間だからだろうか。(でもスマホ決済ユーザーではある。)
とまぁ、全然5分をオーバーしまくって文章を書いてみた。私はやはり瞬発力には乏しいのかもしれない。熟考型なのだ。だけどもっと日々が豊かになれば、5分でももっと豊かな文章が書けるようになるかもしれない。
そのためにも、入り口イベントにこれからも参加しようと思う。それに、人との繋がりが薄れている昨今には、いろいろな方と交流できるイベントは、上質な栄養源になるだろう。
そうだ、もう一つ参加したいイベントがあるのだ。あとで申込みをして「行きます」と約束をしておこう。