遅い衣替え
私は幼少期から病気を患い、人生の序盤で「普通」じゃなくなった。でもそうしたら「特別扱い」されるようになり、もちろん嫌なこともあったけれど、みんなと少し違う場所にいる感覚は、少しだけ幼い私を得意にさせた。けれどそんなに世の中は甘くない。すぐに「特殊扱い」もされるようになり、悪気の無い言葉も温度の無い言葉も冷たい言葉も、私に投げかけられては心に棘を残していった。どうやらその棘は溶けるのに相当な時間を要するようで、大人になった今でもまだ少し形を残している。
そうして思春期に突入した私は、自分を鏡に映すようになる。なおも不条理に「普通」から遠ざかっていく鏡越しの自分に、私は黒い墨でバッテンをつけていった。いつしかバッテンは全身を覆い、自分の存在を確かめられない程、真っ黒に塗りつぶされた。傷を負い続けた皮膚が硬く強くなっていく様に、私は生きるために、自分の存在を見つけるために、鎧を身につけていった。「私は特別なのだ。」という鎧を。
その鎧は私を生かしてくれた。大人になるまでは。
成長するにつれ、人は社会を見渡せるようになる。背が伸び世界を見渡した私はふと気づく。世界はどうやら、『99の「普通」の人と、1の「特別」な私』という構図ではないらしい。そして世界には色々な人間がいて、「普通」は虚像なのだということに。
それでも私は、鎧を脱げなかった。
大人になり社会の中に入ると、その中での自分の立ち位置だったり、自分は何者なのかということを意識するようになる。そうして私は、思っていた自分と実際の自分の違いにもがき出し、ついに社会の中で溺れた。命からがら社会の端っこに避難したところで、またふと気づく。鎧を着た私の中身は、「特別」でもなければ、何者にも成っていないということに。それに気づいた瞬間、初めて鎧がずしんと重く感じた。もしかすると、鎧を脱いで生きた方が楽なのかも知れない。
それがついこの間のことだ。恐らく気づくのが遅い方だと自分でも思うのだけれど、いつからか鎧を着ていることも忘れ、それは私そのものになっていたのだと思う。ただ、それは一種の強迫観念であり、だからこそ、意識して消せるものではない。長い年月私を護ってくれていた鎧は錆び、簡単には脱げなくなっていた。
けれども、今気づけたことは収穫である。鎧を脱げば少なからず身軽にはなる。きっとそこから、自由に生きれば良いのだ。力を抜いて、少しでも気楽に生きられたなら、それに越したことはない。たぶん、今からだって遅くはない。時間をかけて衣替えをしようじゃないか。