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お芝居はおしまい!

流石にそろそろあまり言われなくなったが
幼い頃から母くらいの世代の女性に
「娘だったらよかったのに」
「こんな娘がほしかった〜」と言われることが
なぜだか多いのがわたしという人間で
その度に「そんなそんな〜(にこにこ)」
という感じでやり過ごしていた

大人になってふとしたことから
そんな話を初めて人に話したとき
「みんなそらのお母さんに
なりたくなっちゃうんだね〜」と言われて
ああそっかそういうことか、と思った

今思えばわたしは
どっしり大人ぶってる子どもだった。
幼稚園、小学校低学年ごろまでは
同じクラスの子たちよりも
精神は「年上のお姉さん」だと思っていたし
10歳の誕生日を迎えたとき
「もうそろそろ幼いふりやめてもいいかな」と
ふと思ったあの瞬間をなぜか鮮明に覚えている

振り返れば恥ずかしくなるくらい
明らかに当たり前に
わたしは子どもだった。
何も知らなかったし何も持ってなかった。
生きていた世界はとびきり小さい。

きっと当時はただ
「大人が求める私への理想」が
割とはっきりと見えてしまう
子どもだったんじゃないかと思う

大抵の大人は
真面目で素直で愛想良く礼儀正しく
にこやかにハキハキとしていれば
「良い子」という判子を押してくれる。
でもそれ以外にも人それぞれ
特に好まれる態度というか
好みみたいなものがあって
そういうのを汲み取って演じていた。
そう、演じていたのだ。
そしてそれが「子どもとして」
当たり前だと思っていた。

「大人としての責任」がたくさん存在するように
「子どもとしての責任」もわたしの中では
れっきとして存在していた

周りの大人は決して
理想や役割を押し付けることはしなかった
ただわたしの中で生まれた
「子どもとしての責任」
それを果たすために演じ分けていたのだと思う。

「娘だったらよかったのに」と言った大人たちは
この演じ分けているわたしに気づかず
そう言ったのだろうか。
そう考えるとなんだか可笑しくて
「いやいや娘じゃなくてよかったですね」
と思わず言ってあげたくなってしまう。

別に当時が辛かったとか
そう思わせた周りの大人が...とか
そういうことは今はもう良いやって感じで
ただ思うのは
「よくまあ器用にやったなあ〜」
と自分で自分に関心してしまうくらいだ。
なぜならわたしはもう大人だけど
どうしようもなく子どもらしさが抜けず
なんなら子どもの頃よりも子どもだからだ。

大人になればなるほど
ずいぶんと勝手で自由気ままで、
ちゃんとわがままを言い
ちゃんと怒って泣いて
でも腹は減るからご飯はくれよなという
野良猫のような大人になってしまった。

でも大事な人はちゃんとそばにいてくれている

心に残っている何人かの大人が
子どものわたしに揃って言った
「無理しないでそのままでいいんだよ」
という言葉の意味が最近ようやくわかってきた。

先日、素敵な方に素敵な花束をいただいた。
ピンクのお花の花言葉が「可憐な乙女」で
わたしにぴったりだと思って選んだと
話してくれた。
「乙女ですか〜!(にやにや)」としてしまったしとっても嬉しかった。
大人っぽくならなくても許される空間と人々
そしてそれを許せる自分がいることが
とってもめちゃくちゃ嬉しかった。

部屋には「可憐な乙女」が咲き誇っている
演じ分けが上手な子どものわたしには
「もういいわ!お芝居はおしまい!」と
乙女らしくあどけなく伝えてあげたい。

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