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生物『人々』(ヒトビト)


わたしは人混みを歩くとき
ほとんど人を見ていないことに
最近ふと気がついた

ずっと下を向いているわけでもなく
ちゃんと前を向いて歩いている
でも誰のことも見ていない

誰にも焦点が合わないのだと思う。
忙しなく行き交う人々は
「人々」という生き物のようで
それでもってひとくくりにされている。
だからきっとその中に知り合いがいたとしても
ちょっとした有名人がいたとしても
わたしは胸を張って言える。
全く気がつくことはないだろう

きっとわたしは怖いのだと思う。
その「人々」という生き物が
実は不審物を見るような目でわたしを見ている。
そうだとしたらどうしよう。
頭も心もぐるぐるしていた10代後半
そんなことをいつも思っていたような気がする。
歩き癖で親指の内側が削れた
茶色いローファーを真上から眺める光景が
今でもやたらと鮮明に思い出せる。
ずっと真下を向いて歩いていた。

「大人になった」ということなのか。
いつからかわたしは前を向いて
歩けるようになった。
でも焦点はやっぱり「人々」に合っていない。

わたしは救急車に運ばれたことが2回ある。
それも同じ年に1ヶ月おきに。
「人々」が行き交う足元で気づいたら倒れていた。
起き上がりたいのに身体に力が入らないし
意識もおぼろげで
一体何が起きてるかわからなかった。
ふと顔を上げると、ぞっとした。
たくさんの「人々」がわたしを見ていた。
自分が静止しているととよくわかった。
「人々」は本当に歩くのが早くて
その足がバタバタと
横たわるわたしの前を過ぎていく。
記憶もおぼろげで
覚えているその次の光景は搬送先の病院だ。

「人々」の誰かがわたしに駆け寄り
救急車を呼んでくれた

病院で目を覚まして
その出来事を知ったとき
わたしは涙が止まらなくなった。
「人々」の誰かがわたしを助けてくれた。
どこの誰かもわからないし
泥酔しているかもしれないし
急に怒鳴り散らかすかもしれないし
とにかく何者か分からないとは
そういうことなのに
駆け寄ってくれたんだ。
そう思ったら涙が止まらなかった。

それからわたしは少しずつ
「人々」の誰かになりたいと思った。
駅や人混みで具合が悪そうにしている人に
声をかけるようになった。
これは人助けをしているというよりは
ただ「人々」の誰かになりたいという
自分の欲求の結果にしかすぎない。

「人々」の中にいる誰かにとったら
わたしだって「人々」なのだ。
そう考えると「人々」という生き物は
ほんとは虚像なのかもしれない。

もし「人々」という生物であるのなら
わたしは忙しく通りすぎる足よりも
誰かに駆け寄る足をつけていたい。
そしてたぶんそういう人はもうたくさんいる。
少なくともわたしの友だちはみんな
駆け寄る足を持っているし
そういう大人をわたしはもう
たくさん知っている。

ローファーを見つめて歩く女の子を見るたび
つい自分と重ね合わせてしまう。
その子からしたらわたしも「人々」なんだ
そう思うとちょびっと悲しくなる。
だからすれ違うときこころの中で思ってる
「大丈夫、怖くないよ」と。
たぶんローファーと睨めっこしてたわたしが
かけて欲しかった言葉だから。

「人々」という生物の得体は
やっぱり知り得ない。
わたしは前を向いて歩けるようになったけど
まだその生物に焦点を当てることはできない。
でもそれでいい。だってわたしも「人々」だから。

でも駆け寄る足をもつ「人々」になりたいから
今日もどこかで小さなアンテナを働かせて
具合が悪そうな人はいないかな大丈夫かなと
目の前の小さな世の中に
ほのかに満遍なくおせっかいを焼いている。

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