【掌編8】 引っ越し祝い
友達が月に引っ越したので、新居を訪ねることにした。
住所は簡単だ。緯度経度いずれもちょうど0度の、アペニン山脈の南に広がる平野の上。東には静かの海が、西には嵐の大洋が広がる安息地だ。
家はログハウスの平屋建て。RC造にしなよと助言したが、木の香りを感じていたいのだと返された。月にまで来て木の匂いか……と思ったがしかし、月面にぽつんと建つログハウスは、なかなか風流に見える。
月面は遮るものが少なく、空気も澄んでいる。遠くから近づく私に気づいたらしい、窓を開けた友達が大きく手を振った。地球にいた頃より随分と血色が良い。私も大きく手を振り返し、レゴリスを踏みしめながら進む。
「遠路はるばるご苦労さま」玄関のドアを開けた友達が言った。「長旅だったろ」
「思ったより大変じゃなかったよ」私は応え、お土産を手渡した。数少ない手荷物だ。「これ、まんぷく堂のおまんじゅう」
「うわー! ありがとう! ちょうど食べたいと思ってた」
「と思って。引っ越し蕎麦よりきみらしいかなと」
「わかってるねぇ。これなら緑茶かな。ささ、入って。ちょっと寒かったんじゃない?」
「地球よりはね」
ログハウスはこじんまりとしていた。天井の高さも床面積も間取りも家具の数も、一人暮らしにピッタリだ。バスルームだけ広めにとってあり、天窓から真っ暗な空と地球が見える。
友達は自慢げに笑った。「バスタイムを壮大にしたかったんだよ。こだわりポイント」
「悪くないね」
「なんだよ、その言い方」
「あいにく、風呂はゆっくり落ち着いて浸かりたいもので」
「そっちの流派だったか」
軽くルーム案内を終えた友達は、さっそく緑茶を淹れた。まんぷく堂のおまんじゅうを皿に載せて、テーブルに置く。
「いやぁ、いいね。このおまんじゅうが家にある喜びったらないよ」
「しかしまた、どうして月に?」
引っ越しを告げられたときに返した質問を、再度した。あのときは「いろいろあって」とはぐらかされたが、いまの友達は穏やかな目つきで答えてくれた。
「地球の環境に疲れちゃったんだよね。そっちこそ、地元に帰ることにしたんだって?」
「ああ、都会の喧騒に疲れて」
「それと同じ」
「なるほどね。私が客人一号?」
「きみが最初で最後の客だよ」
おや、と私は片眉を上げた。「他には誰も呼ばないの?」
「友達リストのなかで、きみだけに連絡をしたんだ。引っ越し先を告げたのも、きみだけ」
「ずいぶん特別扱いしてくれるね?」
「きみならここまで来てくれると思ったから」
私は苦笑して、窓の外を見遣った。
ガラスの向こうには白い大地と黒い空が広がっている。今日は地球で言うところの満月だ。月面は太陽光を受けて、白く明るく輝いている。
「怖いところだと思う?」友達が言った。
「いいや」私は言った。「美しいよ」
「だろ。最高だろ」
「うん。嫌いじゃない。でも不便だろうなとは思う。何せここは月だからね」
「どうにかなるよ。なんにもないところには、なんでもあるものさ」
「そんなものか」
「そんなものだ」
「好きだよ、きみの感性」
友達は綻ぶようにはにかんだ。
月で飲む緑茶は、自宅で飲む緑茶と同じ味がした。まんぷく堂のおまんじゅうは、どこで食べてもやっぱり美味しかった。おいしいものを食べることより、おいしいね、と笑い合う時間のほうが大事だった。
身軽な格好で来た私に、友達は呆れ返った。
「一泊していけばいいのに。せっかくここまで来たんだから」
「そうしたいのはやまやまだけど、私も私で忙しいんだよ。明日は仕事だし」
「そっか。ま、次は有給でも取って、3泊くらいしていきなよ。いつ来てくれてもいいからさ。案内したいところがあるんだ。水のある縦穴とか、玄武岩の石切り場とか、古代文明の遺跡とか」
「遺跡? 世紀の大発見じゃないか」
「そうじゃないかと思ってる場所がある。確証はないから、世紀の大発見(仮)だね。(仮)が外れたところで、どこに公表するつもりもないけど」
「独り占め?」
「うん」
友人は緑茶を一口飲んだ。
「自分のために、生きることにしたんだ」
私は突然、嬉しくなる。
「楽しそうでよかったよ」
「ありがとう。どうも地球が合わなかったらしいんだよね」
「早めに気づけてよかったな」
「ほんと」
今回の訪問は引っ越し祝いに留めるつもりだったので、腕時計を見遣って私は席を立った。
「次来るときも、まんぷく堂のおまんじゅうがいい?」
「あー、迷うな。うーん……でも……うん、おまんじゅうがいい」
「了解」
少ない荷物をまとめて外に出てから、頭上を見上げた。そこにはぽつんと地球がある。広大な宇宙のなかに浮かぶ、青と白の惑星。あそこから飛び立ってきたはずが、落っこちてきたような感覚を覚える。
「小さいな」と私。「あんなに小さかったのか」
「ね」と友達。「大きく見えてただけで」
帰るとき、私はここから飛び立つ。そして地球で月を見上げて、似たような感覚を味わうのだろう。落っこちてきたみたいだ、あの小さな衛星から、と。
友達は軒先で私を見送ってくれた。
私は手を振り、レゴリスの上を歩く。細かな砂の上を。ふわふわと舞う粒子を見ながら、また来ようと思う。また落っこちてこよう。そのときはまんぷく堂のおまんじゅうと、季節の和菓子も買ってこよう。3日と言わず1週間分の荷物を抱えて、一緒にやりたいゲームも持ってこよう。たくさんの笑い話を携えて。
振り返ると、友達はまだ軒先にいて、私に気づくと大きく手を振った。幸せそうだった。
後ろ歩きに切り替えて、私も大きく手を振り返した。