【掌編3】 俺の親友
長らく東京で足掻いていたが、役者として芽が出ず、コロナ禍のダメージが癒えぬまま所属していた劇団が解散を迎えたところで潮時を感じ、地元に戻って家業を継ぐことにした。
うちは酒屋をしている。しかし幼い頃は「子供がお酒に近寄っちゃダメ」「間違えて飲んだらどうするの」と親に遠ざけられ、成人後も酒を嗜むような金銭的余裕・時間的余裕がなかったため、俺には商品に対する知識がとにかくない。
両親は、俺の帰省を喜んでくれた。酒のことも経営のことも一からゆっくり学べばいいと慰めてくれたが、三十歳を超えて子供扱いされ、正直応えた。
俺が夢を追いかけている間も、この街には時間が流れている。地元の同世代は出世し、結婚し、ライフステージを着実に上っている。対して俺は、故郷を出て、東京で経験を積んで、うまくいかず戻ってきて……変化は外見と年齢だけで、中身はあの頃のままだった。
秋口のその日は、曇天で、やや肌寒く、俺はいつになくメランコリックな気分で散歩に出た。
街は様変わりしている。公園は静まり返り、商店街の半分以上にシャッターが下りている。日曜の昼下がり、こうしてぶらりと散歩をするたびに、記憶との相違を見つけては衰退を覚え、寂しくなる。ここに何か店があったはずなのに、何があったのか思い出せない……そんな己の記憶力にも呆れる。
いつもより長く歩いていると、堤防に行き着いた。街外れの二級河川だ。かつては小石の転がっていた河原が、いまはコンクリートで舗装されている。山へ続く金属製の古びた橋げたは、以前と変わらずそこにあった。
子供の頃、特別泣き虫だった俺は、うまくいかないことがあるとボロボロ涙をこぼしながら自転車を漕ぎ、ここに来ていた。架橋下にもぐり、河原に腰かけて流れを眺め、せせらぎを聞いていると、心が落ち着いたのだ。
あの頃を思い出しながら橋の下へ入り、同じような姿勢をとってみるが、川幅は記憶よりうんと狭く、灰色の人工物に囲まれた流れもどこかもの悲しい。
溜息が出た。
「わあ、久しぶり!」
驚いて横を向くと、橋の影の外に旧友が立っていた。
あの頃、泣いている俺をよく慰めてくれた、良き親友だ。
「久しぶりだな」俺の声は上ずっている。「元気にしてたか?」
親友はくしゃりと笑って、「どうにかやってるよ」と橋の下に入ってきた。「まさか会えると思ってなかったな」
「俺もだ」
「ヤクシャになるために、トウキョウに行ったんじゃなかったの?」彼は俺の隣に腰かける。あの頃のように。
俺は肩をすくめる。「いろいろあって、戻ってきた。そっちは、ずっとここで?」
「そんな感じ。僕には行くところもないし。いつ帰ってきたの?」
「夏前に」
「なんだ、水臭いなぁ。いの一番に教えてくれたらいいのに」
「水臭いのはどっちだよ」
お決まりのジョークに、親友はケケケと笑う。「違いないや」
高校卒業と同時に街を出て多少は垢抜けた俺だが、親友は全く変わってなかった。お互い「成長したねぇ」とか「変わんねぇなぁ」と笑い合う。
「にしてもきみ、ちょっと痩せすぎじゃない?」改めて俺をじろじろと見た親友が、眉を顰める。「ちゃんと食べてね。野菜はおいしいよ。おすすめはキュウリ!」
「出たよ。ほんと好きだな」
「美味しいし、食感がいいし、水分が摂れるからね!」
「そういえば、母さんがキュウリの浅漬けにはまってた。あれは美味しかったな」
「でしょ。野菜を摂って、運動して、乾燥に気を付けていれば、どうにかなるんだよ」
相変わらずの健康志向だが、俺より長く生きている親友の言葉だ。「はいはい」と笑って返しつつ、心では素直に受け取る。「さいわい、貧乏生活は終わったんだ」
「ヤクシャって、貧乏になるの?」
「才能がなかったんだよ」
驚くほどすんなりと自分の口から出た言葉に、肩がふっと軽くなった。
そうか、俺、才能がなかったんだ。
「ま、向き不向きってのはあるよね」親友はうんうんと頷く。「で、これからどうするの?」
「実家を継ぐつもり」
「酒屋だっけ。飲んだくれちゃだめだよ?」
「気を付ける」
軽快なやりとりに、どんどん心がほぐれていく。
ああ、実感が持てた。いま、やっと、自分が現在に辿り着けた。役者という夢を諦めて、地元に戻ってきた自分の現状に、心が追いついた。旧友と再会したことで。
「いや、大事だな、こういう時間は」
「こういう時間?」
小首を傾げた親友に、俺は続ける。「過去に戻る時間。ノスタルジーを感じる時間」
「なんだそりゃ。ブンガクってやつ?」
「安心感があるんだ。過去を感じるとさ。どうしてだろう?」
「そりゃ、過去を感じることは、いまを感じることに繋がるからじゃない?」
「ああ、そっか、そうかも。ほんと、いいこと言うよなぁ」
「……ねえ、時々でいいから、うちにも遊びに来てよ」
彼ははにかんだ。彼の家は山のほうにある。なかなか訪ねてくる人がおらず、寂しいらしい。
「前と同じ所にあるのか? あの滝の近くの」
「ううん、それより奥に引っ越した」
「完全に山じゃないか」
「僕はまだいいほうだよ。親戚なんかは、家を無くしたり、追い出されたりしてるんだから。肩身が狭いよ、僕たちみたいな存在は」
「そっか……」
俺は目一杯の笑顔とともに、必ず遊びに行く約束をした。
話に花を咲かせているうちに、辺りはいつの間にか夕暮れになって、架橋下の影はその濃さを増していた。周囲に外灯もないため、俺は立ち上がって「そろそろ帰る」と告げた。「ありがとう。俺、頑張れそうだ」
「トウキョウにはトウキョウの良さが、ここにはここの良さがあるからね」
「おまえもいるし?」
「そう、僕もいるし。いつでもノスタルジーを感じてよ。またお話しよう。僕は僕なりに、いろいろやってるからさ」
俺が「またな」と言うと、親友も片手を振って、笑顔で、でも名残惜しそうに、「またね」と返してくれた。
薄暗い曇天のなか、帰路につきながら、俺は思う。親友という存在は、とてつもない力を持っている。そして親友には親友の生き方があり、苦労があり、諦めがある。それは当たり前のことで、普通のことだ。
俺はどこかで、役者を目指し、諦めた俺を、特別視していたのかもしれない。そう扱わなければ、同世代より遅れている自分の穴を埋めることができない気がしたから。
そんなことはない。親友が親友のペースで生きているように、俺は俺のペースでやっていけばいい。みんなそれぞれ、自分に合った生き方があるのだ。誰だって、どんな人だって。そう、人間だって、河童だって。