【掌編6】 彗星の恋人
私の恋人はハレー彗星だ。おそらく私は、地球で最も遠い遠距離恋愛をしている。遠距離恋愛マスターとでも呼んでほしい。でも私の遠距離恋愛は、そんじょそこらの遠距離恋愛とは違うので、アドバイスとかは求めないでほしい。
1986年の2月、私は、彼あるいは彼女と出会った。
当時私は7歳で、「いいものを見せてあげるからね」と両親に言われて車に乗せられ、山奥の山奥のさらに山奥に建つコテージと広場に連行された。
後部座席でほとんど眠っていた私は、父親に揺り起こされてコテージに移り、ふかふかのベッドに寝転がってまた眠り、母親に揺り起こされて広場に出た。
重たい瞼をこすりながら見上げた空に、彼あるいは彼女がいた。
満天の星空に真っ白の絵具を落として、筆で一方に伸ばして描かれたような、大きな光。大きさに反して眩しくない、どこまでも柔らかい光。後ろには長く尾が伸びて、淡いヴェールのように光の軌跡を作っている。いまにも高速で飛び去ってしまいそうな形で、空の同じところにずっといる。光の落とした粒子ひとつひとつが目に見えるようだ。
美しかった。
一目惚れだった。
勢いで告白した。好き同士は告白して恋人になるのだと、中途半端に学んでいた。
「すきです。つきあってください!」
「いいよ〜」
はれて私たちは恋仲となった。
相手が私よりうんと年上なこととか、あまりに軽すぎる返答とかの意味を考え出したのは、それから数年後のことだった。
子供特有の〝いつか思い出になる恋慕〟だと思われているのではないか。遊ばれているのではないか。いろいろ思うところがあったので、私はモールス信号を憶え、時期と位置から適切な方向を導き出し、夜空に向かって超強力なライトでメッセージを送った。
彼あるいは彼女は私よりうんと博識なので、地球から届く光の点滅の意味を理解していた。しかし彗星は太陽から離れるとただの岩体なので、自ら発光することはできない。そこで彼あるいは彼女は、地球付近に残している自分の一部――岩片を遠隔で操作して地球の重力圏に飛び込ませ、流れ星で返答をよこした。
彼あるいは彼女はやがて、私の恋慕が本気であると悟ったらしい。「子供の遊びに付き合ってあげたつもりだったんだ。ごめんよ」と宥めすかして諦めさせようとしてきたが、こちらはとうに第二宇宙速度や第三宇宙速度に達するくらいの覚悟だったので、生来の頑固さをフルに活かして激しい応酬を繰り返し、隙を見つけて畳み掛け、思いつく限りの愛と恋の言葉を駆使して口説きに口説き、本気を見せつけ、弱みに付け込み、押しに押した。
すったもんだの末に、流星が答えた。
「まいったな。どうにも完全に、好きになっちゃったよ」
これが1999年、私が20歳のこと。それからも私たちは、光の速度で会話を続けている。私は何気ない出来事を話し、彼あるいは彼女の宇宙を旅する感想を聞く。彼あるいは彼女は周期彗星としての生涯を話し、私の職場で苦労した話を聞く。
地球とハレー彗星。時間のかかる作業だ。私たちのやりとりの手間を知れば、織姫と彦星もひっくり返るだろう。
去年の末、彼あるいは彼女は遠日点に到着した。そこから折り返して、いまは地球へ向かってきている。
次に彼あるいは彼女と会えるのは、2061年の7月だ。近日点は29日。そのとき私は82歳。
「すっかりお年寄りになってるから、前に会ったときと印象が変わってるかもしれないな。ちょっと探すかもしれないよ」
とメッセージを送ったら、だいたい10時間後に約52億キロメートル先から返信がある。流れ星を使って間接的に。
「探すよ〜。会えるのが楽しみだね!」
彼あるいは彼女は地球へ近づいてきているので、この距離は日に日に縮まり、返信にかかる時間もどんどん短くなっていく。昨日より、先週より、先月より、去年より。その狭まる差が、再会のカウントダウンだ。彼あるいは彼女を待ちわびる私の心は踊り、来る日を思って舞う。彼あるいは彼女はそのうち太陽の影響を受けて、次第にその尾を伸ばし始めるだろう。そうしてまたあの彗星然とした姿となって、私の前に現れる。
「ひさしぶり! 会いに来たよ!」
なんて言って。
長い長い遠距離恋愛はまだまだ続く。
37年後が楽しみだ。