【掌編4】 ないものねだり
梅雨の季節でした。
相も変わらず、雨が降っていました。
世界は雨水の匂いで埋め尽くされています。
街外れ。川沿いに伸びた、車がやっとすれ違えるような狭い道。雨にぬれて色濃くなったアスファルト。その道の片脇に、紫陽花が咲き誇っています。
その紫陽花の根元の陰で、雨蛙が一匹、葉と葉の隙間から、雨降る景色を眺めていました。
そこに、一匹の紋白蝶が入ってきました。
「失礼。相席、よろしいかしら?」
「もちろん」雨蛙は快く答えました。「わたくしも、雨宿りの途中でございます」
「うふふ、おんなじね」紋白蝶が雨蛙の隣に下りたって、その白い羽を閉じました。
二匹は外を眺めていました。
時折通る車のタイヤ。白いガードレール。狭い歩道。大きな生物の気配はありません。紫陽花の陰はどこまでも穏やかでした。
「もし」紋白蝶が、ふいに言いました。「この質問は、あなたの気分を損ねるかもしれないのだけれどね」
「なんでしょう」
「あなた、雨蛙でしょう。なぜこんなところで、雨宿りなんてしておられるのかしら」
雨蛙は、少し黙りました。
そして、答えました。
「実はわたくし、こう見えて雨が苦手でございまして、出来ればあの雨粒に当たりとうなくございます」
「あら、そうなの」
「お恥ずかしい話ではございますが」
「そんなことないわ」紋白蝶は一度羽を開き、また閉じました。「なぜ雨が苦手なのか、訊いても?」
「ええ。身体に雨粒の当たるあの感触が、何とも言えぬ不快感を催すものでありまして。雨蛙としてはよろしくありませんが、わたくしは本当に、この雨とやらが嫌になるのです」
「でも雨蛙に生まれた限りは、雨に当たって鳴かなければなりませんでしょう?」
「そうなのです。ですから先ほどまで無理して、雨に打たれておりました。それにこうして時折――」雨蛙は咽を膨らませて、ゲエコと鳴らしました。「申し訳程度に、職務を全うしております」
紫陽花の前を、白猫が走って通り過ぎて行きました。ちりん、という鈴の音が、共に駆け抜けて行きました。
猫が通り過ぎて、しばらくしてから、雨蛙は続けます。
「わたくしは、紋白蝶さまが羨ましく思われます」
「わたしが?」
「鳴かずとも済む身体を持ち、空を自由自在に飛び回ることができるのですから」
「それは、羨ましがることなのかしら?」
「ええ。いつかわたくしも、空を飛んでみたいと、そう思います」
「不思議なことがあるものですわ」
紋白蝶が羽をまた開き、閉じました。
「と、言われますと?」
雨蛙が尋ねました。
紋白蝶は嬉しそうに言いました。
「実はわたし、高いところが本当に苦手なのです。紋白蝶なのに」
「おやおや」
「それに、雨というものが、この上なく好きなのです」
「それはそれは」心底驚いた口調で、雨蛙がゲエコと鳴きました。「大層不思議なことですね。理由を訊いても?」
「もちろんよ。まず、高いところは怖いでしょう? 何かの間違いで落ちたら、こんなに軽くて弱い身体ですもの、地面に叩きつけられて死んでしまうわ。そう思うとわたし、なかなか自由に空を行き来することができませんの。できるのは、こうして」
紋白蝶はふわりと飛び上がり、雨蛙に近づいて、また地面に降りました。
「少しの間、飛ぶくらい」
「それはまた、ずいぶんと難儀ですね」
「ええ。それにわたし、あの雨粒が羽に当たる感覚が、くすぐったく、何とも言えなくて大好きなのよ。けれど、蝶としてはよろしくありませんの。だって、羽がだめになってしまいますから。わたしは高いところは苦手で、この雨が大好きではありますけれど、蝶である限りは飛ばねばなりませんし、雨に思いきり打たれることはできませんのよ」
紋白蝶は、名残惜しそうに溜息を吐きました。
「わたし、本当に羨ましく思われますわ。飛ばずに済む、雨に打たれても負けない身体」
「なるほど」雨蛙がゲエコと鳴きました。嬉しそうでした。「それはつまり、無い物ねだりと言うものでありますな」
「ないものねだり?」
「左様でございます。わたくしは雨に当たらずとも済む、空を飛べる身体を。紋白蝶さまは空を飛ばずに済む、雨に当たっても良い身体を願っています」
「でしたら、わたしたち、入れ換わってしまったほうがずっと簡単ね」
「しかしそう上手くいかないのが、世の常というものであります」
「ええ、悲しいことですわ」
紫陽花の前を、大きな声と長靴がいくつも通り過ぎて行きました。
紋白蝶は羽を三度動かすと、口調を変えて言いました。「あら、雨が」
「ええ」雨蛙も言いました。「本降りは通り過ぎたようです」そして、続けました。「では、わたくしはお暇いたします。これから私用がございますから」
「そう」紋白蝶は飛び上がって、少し離れたところへ着地しました。「楽しい時間をありがとう。良い雨宿りになりましたわ」
雨蛙は笑いました。「こちらこそ」
そして別れを告げると、紫陽花の陰からゆっくりはねて出て行きました。
わずかに行ったところで、雨蛙は振り返りました。「もし」
紋白蝶は、紫陽花の陰から返答します。「なにかしら」
「またどこかで会う機会があるなら、わたくしは、それまでに雨粒に慣れておきましょう」
紋白蝶は黙りました。
かなり黙っていました。
長いこと、黙っていました。
数度羽を広げ、閉じ、広げを繰り返しました。
そして、やっと、言いました。
「どうして?」
雨蛙はすぐに言います。
「わたくしは雨蛙。雨に打たれても負けない身体を持っています。ですから、雨粒の当たる感覚に良い部分を探してみようと、そう思ったからにございます」
「それは、わたしの話を聞いたから?」
「ええ」ゲエコと雨蛙は鳴きました。「ですから、またどこかでお会いしたとき、わたくしもあなたの話を聞いてみたい。空を飛ぶ感覚の、良い部分の話を」
「できるかしら?」
「無理にとは言いません。でも、少しばかりの期待を」
紋白蝶はくすりと笑いました。「そうね、少しばかりの期待を」
「ではまた」
「ええ、どこかで」
雨蛙は、ぴょんぴょんと飛び跳ねていきます。紫陽花の陰で雨上がりを待つ紋白蝶は、もうしばらくそこでじっとしています。
雨脚がゆるやかに弱まってきました。
もうすぐ梅雨明けです。