【掌編2】 復讐下手な蟻
仕事から帰ると、マンションのドアの前に蟻がいた。俺が今朝、踏み潰した蟻だ。何をしているのかと眺めていたら、そいつは壁の凹凸を攀じ登り、インターフォンのボタンの上にたどり着いた。しかし小さな体が乗ったところで、ベルはうんともすんとも言わない。
「俺の家に用ですか」
尋ねると、「あ!」と、そこで初めて俺に気がついたようだった。「これ、鳴らしたくて」
代わりにボタンを押してやったら、ピンポーンとドアの向こうからくぐもった音がした。俺は一人暮らしなので、誰も出てこない。
「ありがとうございます」蟻はぺこりと頭を下げた。「家を訪ねるときは、これを鳴らすのが人間のしきたりだと伺いました」
「そうだね」
今朝、寝坊して慌てて家を出て、階段を下りる途中に段を踏み外した。咄嗟に足をついた先に蟻がいた。事故だった。つまり、いま目の前にいる蟻は幽霊だ。
後ろめたい気持ちがあったので、俺は蟻を指先に乗せて帰宅した。リビングの電気を点け、テーブルの上に蟻を置き、一体全体、なぜ自分を殺した人間の家を訪ねたのかと訊いた。
「復讐のためです」
「復讐?」
「わたしは殺されました。だから復讐をしたほうがいいのかな、と思いまして」
招き入れてしまった。やらかしたか。どきりとしたが、すぐに冷静さを取り戻す。たかが蟻一匹だ。俺は空のペットボトルにそいつを入れた。
「ここがおまえの新しい家だ」
「お心遣い、ありがとうございます!」
蟻は「あれ?」と動きを止めた。「もしかして、閉じ込めました?」
ひとまず初手は封じた。
蟻といえば、甘いものが好きだ。砂糖の塊と粉をポロポロとペットボトルのなかに落としてやった。機嫌取りのつもりだった。しかし蟻はすでに死んでいるので、食事の必要はなく、俺の甘いもの作戦に効果はなかった。ならば悪霊のように祟りやら浮遊やらすり抜けやらができればいいものを、そこはただの蟻らしかった。
「こんなもんですよ」砂糖に埋もれながら、蟻は言った。「仕方ありません」
「どうやって俺に復讐するつもりだったんだ?」
「それが、ずっと考えているのですが、何も思いつかないのです。相談に乗っていただけませんか?」
蟻いわく、自分には蜂のような羽も毒針もない。とにかく復讐の機会を作るために、俺の家へ入ろうとしていたらしい。なんだか安心したので、相談に乗ってやった。
いままでと大して変わらない、蟻との生活が始まった。奇妙な共同生活、といった表現も大袈裟で、蟻は実際のところ、ペットボトルの底を間借りしているだけだった。触角をてんでバラバラに動かす以外にできることがない蟻は、俺の仕事の愚痴を聞かされたり、恋人に振られた悲しみを垂れ流されたりと、哀れな立場に収まった。しかし、俺の話を聞き、俺に同情し、俺を慰める一方で、しっかりと復讐の機会を窺っているようだった。
「まずは、ペットボトルから出ます」
「どうやって?」
「ペットボトルが倒れるまで、待ちます」
「キャップは?」
「外れるまで、待ちます」
俺はガムテープでペットボトルをテーブルの端に固定した。蟻は嘆いたが、作戦を漏らした蟻が悪い。俺が「以後気をつけるんだな」と言うと、蟻は「なるほど、たしかにそうですね」と納得した。さらに俺が「頑張っていれば、そのうち努力が報われるかもな」と言えば、「わかりました!」と元気いっぱいの返事があった。
数ヶ月が経ったある日、「ただいま」と帰宅してリビングの電気を点け、いつものようにペットボトルを見遣ると、蟻が底で倒れていた。俺の手からビジネスバッグの把手がすり抜け、フローリングにぶつかった。
俺は駆け寄った。「どうした」
蟻が倒れたまま答えた。「限界です」
「何が」
「現世に留まる力が」
「なんだって」
「悔しいです。まだ、あなたに復讐していないのに」
「どうにかならないのか」
「どうにもなりません。さよなら」
蟻は空気に溶けるように消えてしまった。あまりに突然で、あまりに呆気なかった。
俺はしばらく空のペットボトルを眺めた。キャップを開けたが、空のままだった。辺りを見回し、インターフォンが鳴るのを少し待った。玄関へ向かい、そっとドアを開けて、地面を見た。インターフォンのボタンの上を見た。何もいない。
「蟻」と呼んだ。
いってきます、と、ただいま、を言うようなったのは、いつからだったか。おやすみ、おはよう、と言うようになったのは。
今日のクレーマーの話、聞いてもらおうと思っていたのに。とんでもないですね、と蟻に笑ってほしかったのに。
ドアを閉め、どうしようもなく寂しくなって、そこで初めて、俺は、やつが復讐を遂げたことを知った。