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見えない棘

立て続けに数冊の小説を読んだ。

読んだ本のほとんどが、読後感を誰かとは共有しなくてもいいと思えるものだった。
自分の孤独を、誰かと共有などしなくてもいいのと同じ意味において。
この余韻を、自分だけのものとして咀嚼する時間は、限りなく贅沢にも思える。
 
 
今はスピードの時代。
どれだけ早く、どれだけ簡単に情報を取り入れられるかが重要視される。
それが自分を楽にし、人生を良いものにすると信じられているからだ。

そのせいで分かりにくいものは即捨てられ、実用的になり、簡単な字幕説明になり、カテゴリー分けされた人間の表層しか見えない。
そこには余白も余韻もなく、私たちはそれに余裕もなく慣れていく。
 
分かりにくいもの、咀嚼が必要なものを私が好むのは、考えを巡らす余地を愛するから。
少しでも考えて想像力を使えば、取りこぼさずに済むことの、いかに多いことか。
 
 
現実世界ではどうも情熱を持て余す。
何もかもが物足りないようで、説明されているはずなのにどこにも真実などないようで、わからなくなっては万事どうでもよくなっていく。

だけど、そんなことでは、所詮身の丈で生きる、などという狭苦しい考えに閉じ込められ、「私の永遠を生きる」なんてことには思いも至らないまま自分を終えてしまうのだろう。
 
それが癪であるのか否か。
 
 
どんな啓発本より、文学は気づきをもたらす。
そこには、言葉がある前に人生があるから。
 
直接的で刺激的な、簡易な正しさをリアルに説明されるよりも、紙の上に俯瞰された誰かの人生たちは、心に深く突き刺さり、まるで指先の小さな棘のように、容易に抜けるものではない。
 
 

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