金網と雑草
金網が好きで(しかも、ところどころ破れてる金網)、そこから顔を出す自然の花を、何度も撮ってる場所へ。
久しぶりに行ったら、金網が全部破れてなくなっていて、枠だけになっていた。
朽ちるだけの時間が流れたということだろうか。
いつも恥ずかしげに金網に絡まっていた雑草や花だけが変わらずに、今こそ声を上げるように上を向いてのびのびとしていて。
金網という制限を飛び越えた喜びも見えるような。
共存とか同志とか、なんというか、生きものと物質というお互いに異質なのに寄り添いあう、一つの完成された、完結されたものだったなあと思っていた。
それを美しいと捉えていた私がいたのかもしれない。
しかし、生まれたものには終わりがあり、新しいかたちへの変化があり、私たちはみんな、そのプロセスを生きる。
そこにこそ美があり、真実があるのだと、今さらながらに気づいた気分。
美しさを無視せず生きていきたい、と思う。
美しさとは、孤独で
美しさとは、けなげで
美しさとは、潔く強くて
美しさとは、たえず変化していて
美しさとは、自分だけのもので
美しさとは、だからこそ自由で
美しさとは、いつも本物で真実
あらゆる解放が起こっている私の人生において、
美しくないな、と思う生き方を
もうしないことにしようと決めた。
私なんて、そもそもどうしようもなく不器用でダメな人だ。
あっちにぶつかり、こっちに落ち、思うようになんて全然歩いていない。
今も、今までも。
でも、ため息をついて、力をなくして、自己肯定感?なんかを低くしている場合ではないから。
それは、だって、美しくないのだもの。
「ブレないですね、一貫していますね」
経験を重ねてきて、周りの人にそう言われることは多くなったけれど、そんなのはたぶん私の一部分でしかない。
ブレない人が美しいわけではない。
安定の美、なんてものはない。
変化を楽しめるようでなければ、美はそもそも感じられないものではないか。
着飾って、自信をつけて、安定感を持って、折れない強さを身につけるだけが必要なことではないように思う。
明るさや前向きさや、這い上がる力だけが美しいわけではない。
倒れる美も、朽ちる美も、揺れる涙の美しさだって、きっと誰でも感じられるもの。
素の自分をしっかりわかっておく。
自分って何だっけ?どう変化している?
それを自分にだけ、さらけ出してみる。
本当の中に美しさがある。
それは「格好良さ」とは全く違うものかもしれない。
それを無視しない。
破れてしまった金網は、自分を守るための制限と安定の象徴だったのか?
それが無くなった今、雑草たちはいきいきと美しさを増し、伸びては朽ち、また生まれる。
その流れの中、変化していく景色を、あるいは終わっていく過程を、美しいと思える自分だけは守ろうと思った。
定点観測のように撮ってきた場所。
この地を去るので、これが最後の訪問になりそうだ。
またいつか、どこかで会おうね。きっとね。