シン・ウルトラマンの特報から想像する原発と核というテーマ
本日(2021年1月29日)、『シン・ウルトラマン』の特報が公開されました。いや~。今の所『シン・ゴジラ』そのままという感想ですね。ただ、作品の根幹に関わるであろう表現が特報からいくつか散見できたので、ざっくり「こんな作品になるんじゃないか」という想像をまとめました。
結論から述べると、シン・ウルトラマンは「原発と日本の地方の関わり」を構造主義的の目線から描く作品だと思います。
なぜネロンガとガボラなのか
特報には、ネロンガとガボラ(と思われる、前田真宏風デザインの2体の怪獣)が登場します。どちらも『ウルトラマン(以下、初代マン)』に登場しましたが、レッドキングやゼットン等の作品を代表する怪獣と比べるとやや影が薄い存在です。さて、なぜこの2体がシン・ウルトラマンに選出されたのでしょうか。
それは、ネロンガとガボラが共にエネルギーに関係する怪獣だからだと考えられます。初代マンの作中ではネロンガは電気を吸収する怪獣であり、発電所を襲います。また、ガボラは核分裂に利用されるウラン235を食べる怪獣として描かれています。
庵野秀明は自身の監督したSF作品において、「怪物的な存在が人類に接近する理由」を描いています。『トップをねらえ!』における宇宙怪獣は「(作中で明確に理由としては描かれていないものの)宇宙における不要物を排除するため」、『新世紀エヴァンゲリオン』における使徒は「第1使徒アダムと融合するため」という理由で、それぞれ人類に接近します。言うまでもなくこれらの理由付けは「なぜ特撮作品の怪獣は特に理由もなく都市を襲う(のがほとんど)なのか?」に対するアンサーであり、作品のリアリズム向上のために設定されています。
これをふまえて考えるに、シン・ウルトラマンにおける怪獣はエネルギーを求めて出現するものとして描かれる可能性が高いでしょう。
また、『科楽特奏隊(特撮ソングを中心に演奏するバンド)』のメンバーであるタカハシヒョウリ(オワリカラ)は、ネロンガとガボラの選出について、初代マンにおける着ぐるみの再利用という点から指摘しています。
この指摘の通り、2体の選出はオマージュにとどまらず、何らかの意図があると考えたくなります。
着ぐるみを再利用した、という情報を活かした選出は単なるメタ的なファンサービスではなく、シン・ウルトラマンにおいて怪獣がどのような存在であるのかを示しているのではないでしょうか。
すなわち、「ネロンガの着ぐるみをガボラに再利用する」=「(作中でウルトラマンに倒された)ネロンガの体を、ガボラの体として復活させ、(何らかの敵宇宙人がガボラを操り)再び日本を襲わせる」という展開に(オタク的スノビズムによる)説得力を与えるための選出ではないでしょうか。
特報では、明確に敵宇宙人が登場する描写がありませんでした。しかし、市街地に機動隊が投入される場面は描かれており、これこそが「出現した等身大敵宇宙人(あるいはその出現の痕跡)との接触」を描いたシーンなのではないかと予想しています。
なぜ防護服なのか
特報には、複数の登場人物が放射線防護服らしきものを身にまとっているシーンが存在します。現代の日本を舞台にした作品である場合、こういった衣装が求められる場所として原子力発電所が連想されるでしょう。前述の通り、今作の怪獣がエネルギーを求めて出現すると仮定した場合、原発が襲われることも十分に考えられます。
また、特報では、流星を模したバッジがアップで写る場面も存在します。言うまでもなくこれは初代マンにおける科学特捜隊(以下、科特隊)メンバーのバッジです。ただし、初代マンにおける科特隊がいかにも特撮作品的なオレンジ色の隊員服を身に着けていたのに対し、特報にはそれらしき衣装が登場しなかったため、本作における立ち位置は異なるものになっていると考えられます。
さて、初代マンにおける科特隊は単なる地球防衛隊ではなく、怪事件や巨大生物・宇宙人などを調査・対策する組織としても描かれていました。本作では後者の要素をより強調し、シン・ゴジラにおける巨災対のような組織として描かれるのではないでしょうか。
すなわち、怪獣が接近することを調査・予測し、出現した際は科学的な見地から自衛隊や警察を指揮あるいは補佐する役割にあると考えられます。特報では斎藤工が防護服姿のままベーターカプセル(らしきもの)を手にウルトラマンへ変身しようとする姿が使われていますが、これは「原発の稼働を止める作業に立ち会っていた最中に怪獣が出現した」のようなシーンであると想像できます。
想像が当たっていたとしたら、原発稼働の可否に強い影響を持つ組織となることから、巨災対以上に(局所的に)強い権限を持つ組織として描かれることでしょう。
なぜ『野生の思考』なのか
特報では、斎藤工がレヴィ=ストロース著の『野生の思考』を読むシーンがあります。本著は未開部族を例に社会思想の本質を説いたものであり、構造主義の代表的著作としても有名です。ウルトラマンを高度に科学文明の進んだ異星人と捉えた場合、地球人は未だ他種の知的生命体と遭遇したこともない野蛮人であるため、本著における西洋的近代人と未開部族の関係になぞらえたものとも考えられます。すなわち、『野生の思考』を読むシーンは、斎藤工はが「果たしてウルトラマンは地球人をどのような存在だと捉えているのか」を考える場面だとも予想できます。
一方で、シン・ウルトラマンにおける本著はそこまで直接的な比喩ではなく、むしろ「作中では人類社会を構造主義として捉える」という構図のメタファーとして用いられるのではないでしょうか。
構造主義とは、社会には不可視の構造があり、それ故に人々の行動や事象が決定づけられているという考え方です。例えば現代の日本においても、人々は自由意志で好みの職業を選ぶことが可能ですが、実際は賃金や社会規範・風習その他の理由により就ける職が限られているということが大半です。これは、単に否定的な障害というわけではなく、より社会を円滑に回すためにも実質的な制限が存在しているのも事実です。
社会が運営される以上、必ず必要とされるのがエネルギーです。先の震災以降、原子力という存在の可否は常に注目されており、シン・ゴジラにおいても象徴的に描かれていました。当然のことながら国/世界がどのようなエネルギーを利用するかは、そこに住む人々の行動をコントロールする大きな要素のひとつです。
本作における原発とは、日本に生きる人々の行動をコントロールする存在として描かれることでしょう。すなわち「原発を主要なエネルギー資源として繁栄した戦後日本を怪獣(津波であり、震災以降に交わされた、稼働や建設可否に関する議論などの象徴)が襲った時、日本人はこれまでの社会形態を捨てる選択ができるのか?」という問いこそが、作中で描かれるテーマになる可能性は高いと思われます。
そして本作におけるウルトラマンとは、人類社会の構造を保護する管理員の役割、すなわちシン(神)そのものとして描かれることでしょう。また、日本に対し安全保障するアメリカという存在を暗喩しているともいえます。
なぜ原発/核なのか
さて、ここまで読み進めた方の多くは「なぜそこまで原発/核が描かれることを前提とした想像なのか」と疑問を持たれることでしょう。予め断っておきますが、僕は盲目的な反原発思想の人間ではありません。したがって社会批評性をはらむ作品を強引に原発に結びつけて語るようなつもりもありません。
しかし、僕は庵野秀明がどんな人間であるかを語る時に「核の作家である」という肩書で紹介することがあります。
実は、庵野秀明が監督したSF作品においては必ず核(あるいはそれに類する威力の)兵器が登場します。初監督作品の『トップをねらえ!』では光子魚雷が、『ふしぎの海のナディア』ではバベルの光が、『新世紀エヴァンゲリオン』ではN2兵器が登場しました。言うまでもなくこれらの作品で「核」という言葉を避けているのは放送コード的な配慮によるものです。そして、自主制作映画『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』と映画『シン・ゴジラ』では明確に名前を出して核兵器を登場させています。
『シン・ゴジラ』においてゴジラは明らかに原発のメタファーでした。ゴジラが東京駅で冷温停止し鎮座するのは、「東京の大電力は福島という土地に頼り切った結果である。その福島が原発によって失われた時、東京は何の責任も負わない」という問題を浮かび上がらせるためです。「福島第一原子力発電所が東京のド真ん中にあると思えよ」「それくらいのことをしないと、東京の人間は先の失敗について誰も罪悪感を覚えないから」というメッセージは痛快なほどこの映画を貫いていたように思います。このテーマやメッセージを肯定するかどうかはともかく、シン・ゴジラは現代日本と原発を描いた作品として確たる存在感を発揮していました。
前述した防護服、ネロンガ、ガボラというモチーフは、シン・ウルトラマンにおいても原発/核を取り扱うことの宣言であるように思えてなりません。では、シン・ウルトラマンにおいて原発/核はどういった形で描かれるのでしょうか。ヒントは怪獣が登場するシーンにあると考えます。
シン・ゴジラにおいて、描かれるのは徹底して海と東京とその間を接続する地域でした。『ゴジラ(1954)』の上陸経路をオマージュしつつ、東京という都市のありようについてフォーカスして語っていたわけです。しかし、シン・ウルトラマンにおいて怪獣が登場する場所は、やや寂れた田舎です。シーンによってばらつきがあるものの、おおむね人口1~5万人の地方都市として描かれているのではないでしょうか。
シン・ゴジラの例から考えるに、シン・ウルトラマンの舞台は地方です。それも、原発が建設される程度に人口のまばらな都市。そして、映画内で語られるテーマも「日本における地方のありよう」でしょう。「大都市から押し付けられた原発に反感を持ちながらも、人々はその恩恵をこうむって生活している」「人口は減り続け、原発しか頼れる存在がない」という、シン・ゴジラで語った内容の反対に位置する暗部を描くのではないかと予想します。
なぜ庵野秀明なのか
と、いうわけで特報の限られた情報の中から妄想を膨らましていろいろと書きましたが、シン・ウルトラマンの監督は樋口真嗣です。ここまでさんざん名前を出した庵野秀明は、シン・ウルトラマンにおいて監督(あるいは総監督)ではなく、企画・脚本という立ち位置で参加します。
では、なぜ樋口真嗣ではなく庵野秀明の観点からシン・ウルトラマンを想像して語ったのでしょうか。それは、正直に言って特報の中から「庵野秀明っぽさ」しか感じなかったためです。
(自衛隊車両が写るこのシーンだけは樋口真嗣っぽさを感じた。樋口真嗣というか、『ガメラ2』っぽさだけど)
もちろん、庵野秀明はこれまで何度も作品内で樋口真嗣とタッグを組んできました。したがって過去作品の「庵野秀明っぽさ」の何割かは樋口真嗣の功績なのですが、残念ながら僕はそこを見極め、特報の中から「樋口真嗣っぽさ」を強く感じる事はできませんでした。と、いうわけで、僕はいまだに「実は発表していないだけで、シン・ウルトラマンも総監督は庵野秀明である説」を信じていたりします。だってシン・ゴジラのスタッフロール、発表してなかっただけで庵野秀明の担当メチャクチャ多かったじゃないですか。あれを超えるサプライズがあるとしたら庵野総監督だと思うんですけど……どうでしょう。
ただし、特報でその存在感を隠しているだけで、本編では樋口真嗣の溢れんばかりの才能を全開にしてくれる可能性も十分あると思います。僕は樋口真嗣の魅力はエヴァ八話の空母で八艘飛びするエヴァンゲリオンとか、『破』の緊急コース生成とか、平成ガメラの身近な存在を爆破して没入感を高めてくれるミニチュアワーク(『GAMERA1999』の、吹っ飛ぶ渋谷の人々を撮影する樋口の楽しそうな顔は最高!!)などのスケールの大きな演出だと思っています。そういう豪快なシーンは特報では隠すと思いますし……だから、今のとこ分からないんですけど、うーんどうでしょう。
早く見たいですね。シン・ウルトラマン。
<引用した画像はすべて映画『シン・ウルトラマン』特報【2021年初夏公開】より>
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