まだ知らない言葉の美しさに出会いたい?
(ある1日の記録)
『キッチン』は私にとって大切な本。
ものがたりや、文芸を好きになるきっかけをくれた本だから。
高校2年生の冬、当時読書にはまって図書館に通い詰めていた私に、中一からの大親友が図書館までついてきてくれておすすめしてくれたのが出会いだった。
こんなに短い文章でも、こんなに軽やかで易しい言葉でも、こんなに切なくて奥行きのある物語を紡いで、誰かを深いところから救うことができるのか。
そのことが私にとっては衝撃で、以来、旅先やなんてことない日や節目節目で読み返し、そうすることで自分を確かめるような、大切な本だった。
だから、留学先にも必ず持っていくと真っ先に決めたし、実際こうして遠く離れた街まで連れてきたのだった。
その日は、私が留学先に到着してまだ1週間も経っていないころで(これを書いているいまでさえ、まだ10日目である)、色々な不安や自分に対する不甲斐なさで特に落ち込んでいたころだった。食生活も安定していなかったから、精神状態も、ゆらゆら揺れるろうそくの火みたいに、ちょっと頼りなかったのだと思う。
やらなきゃいけないことはあれもこれも出来ていないし、勉強だってまだちゃんとできてないし、友だちも積極的に作れていない。
そのことにちゃんと自己嫌悪に陥るのに、タスクを放置してカフェや散歩に行きたがるんだから私って本当にないよなあ、と自分に呆れながら、旧市街の坂を上ってお店の扉を開けた。
無事に注文を終えて、スコーンと紅茶が提供されたので、とりあえずこれでお会計までは気持ちを落ち着かせることが出来る。
ずっと神経を張りつめさせている緊張をどこかへやるために、私は一文一節ずつを丁寧に読むことで物語の世界に潜り込んでいった。
この本のどんなところが魅力で好きなのか、よくわかっていたつもりだったけど、今の自分に『キッチン』が見せた顔は優しすぎた。
この人みたいに、自分の周りにある世界をこんなにきれいに言葉にできることや、そうして取り出せること知ったなら、私はもっと自由になれるのに。
頭があつかった。涙は流していなかったが、自分が泣いているのではないかと錯覚したほどだったので、きっと半分くらい泣いていたんだと思う。
こうして、「この作品が好きな自分」を確かめることで自分を取り戻せるのなら、もしかしたら私は、この薄い文庫本さえあればどこへでも行けるのかもしれないと、半ば本気で思った。
高校生のとき「もし自分に小説を書けるのならこんなものが書きたい」と心震わせ、原点かつバイブルであり続けてきたこの作品を
21歳になった私が、縁もゆかりもなかった大海を越えた街の路地裏の小さなカフェで読んでいる。
そのことは、私にどうしようもなく「人生」という大きな河の流れを意識させた。
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カフェを出た後、すぐ近くの古書店に立ち寄った。
その歴史ある古い書店の床は、一歩踏むたびにミシッと軋んで、咳払いどころか呼吸の音さえ響いてしまいそうなほどに静まりかえっていた。
目の前には天井までの本棚があり、それが部屋のずっと奥の奥まで続いている。自分が呼吸を繰り返す音を聞きながら、目の前に広がるまだ知らない世界に思いを馳せずにはいられなかった。
そうだ、こんなにも、こんなにも本はある。
今はまだ読めない本たち。
これまで、何度も「私にはこれしかない」と思ってしまいそうになるほど、日本語で紡がれる言葉にずっと魅せられてきた。
同じように、英語にもフランス語にもその言語の美しさが絶対にあるはずだ。その言語だから生まれる、原語で理解するのが一番美しい表現たちが。
もっと勉強したら、まだ見ぬ世界の美しさの取り出し方を知ることができるんだろうか。
もしその手段が増えるのならば、知りたい、と強く思う。
人が一生のうちに使える時間はごく限られているし、たとえ外国語を習得する意義が縮小していくとしても、そのために喜んで勉強できる、と思う。
自分が、きっと他人から見てイライラするくらい、甘く育ったことも、常に大勢の人に許されて支えられてきたくせに「大抵のことは何とかなる」という無責任さや能天気さを身につけてしまったことも、大甘の大馬鹿なのも知っている。
私は、そんな自分のことを「書くこと」で振り返り、発見し、確かめてきた。
そして、いまこの街で、私は「学生」以外の何者でもない。
住まいや暮らし、大学やバイト、家族や友だちといった、自分が慣れ親しんだあらゆるものごとから唐突に切り離され、宙ぶらりんな気持ちで現実味のない現実を過ごすなかで、いまの私にとってただ確かなものは目の前に書きつける言葉なのだった。
自分が願う道を、それぞれの方法で「いいね」と優しく願ってくれる周りの大人たちのことを思い出して、私はもっと言葉の世界に潜り込んでみたくなる。この先にまだ見ぬ美しいものがあるなら、そこまで行ってみたい。
そんなことを、古びた古書店の本棚の前で立ち尽くしながら考えた。
書店を出るときには、自分の心のずっと奥にある何かが、その硬度を一段階増した気がしていた。
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太陽が沈んだ残り陽で、真っ暗ではないけど闇がおりてくる、夜がやってくる直前のこの街の表情が私はとても好きだ。
このまちの建造物はアイボリーや緑などの落ち着いた色味が多くて、陽が落ちるとそれらは群青に近い夜の色に染まり始める。
そうやってすこしずつ街の彩度が低くなるときにポツポツと灯りだすオレンジの明かりはいっそう温かく見え、大きい窓から漏れ出る明かりが、静かな路地裏の石畳や建物を照らしているのがあまりにもきれいなので、歩くのをやめて立ち尽くしたくなってしまう。
きっと、こうやって、
一つずつお気に入りの場所を見つけたり、
心を強く動かす瞬間を積み重ねたりして、
今いる場所のことを好きになっていく。
一年後、留学を終えるとき、自分にとってこの街はどんな場所になっているのだろう。
この街を離れるとき、私はどんなことを思うのだろう。どんな変化を経ているのだろう。
総じて変化は良いことだと思う一方で、「変わったね」って言われることが自分でもなぜか分からないほど怖い。いまの自分のままで、成長することができたらいいのに。
バスに揺られながら、期待と不安がないまぜになった心をそっと宥める。
答えのない問いに深く潜ってしまわぬよう、窓の外に流れていく橙色の光たちをただただ眺めていた。
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今回のnote、まったく私的すぎますね。
ただただ自分のために書いてしまいました。
読んでくださった方はありがとうございます🐋