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第124回 遣唐使 の巻
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最先端の国、唐。
日本は唐の子分としてプレゼントを持参してご挨拶に伺い、その代わりに最新のトレンドを学んで帰る、それが遣唐使でした。
遣唐使は、国を代表する優秀な人物が選ばれる、名誉ある仕事。
道真の祖父・叔父が遣唐使だったこともあり、家系的にも実力的にも、道真は遣唐使のリーダーに選ばれました。
■遣唐使は道真追放のための藤原氏の陰謀?!
『遣唐使は道真を追放するための藤原氏の陰謀』という珍説があります。
藤原氏が、目の上のタンコブである道真を遣唐使で外国に追い出し、あわよくば船が遭難してしまえば…というものです。
しかし、仮にそうだとして、その追放計画を考えた藤原氏って誰?
バイネームでは…ひとりも候補が出てきません。
時平?
いや…、この頃の時平はステータスこそあれ、まだそこまでの発言力も権力も実力もありません。そもそも、道真大好きですし…。
では、遣唐使を決定したり、その人事に口をはさむほどの権力者といえば…
しいていえば、宇多帝の養母・藤原淑子ぐらいです。しかし淑子は最大の実力者とはいえ、こまかい行政には口を出したことはほぼないし、こちらも道真との関係は良好です。
そもそもこの頃の道真は、藤原の大物たち・源氏の大物たち・天皇、上にいるほぼすべてから信頼され好かれていて、また、下にいる官僚たちの大半が塾の弟子たちという、敵が極端に少ない珍しいポジションだったのだす。
■この時期、唐は遣唐使どころの状態ではなかった!
この時期に遣唐使が持ち上がったこと自体が謎です。
実は唐にいる中瓘(ちゅうかん)というお坊さんが、唐の衰退ぶりをつぶさに文書で送って来ていたのは前年のこと。
道真はこれを根拠に遣唐使の停止を提言するわけですが、道真が言うまでもなく前年の時点で宮廷の幹部はみんな知っていたはずです。
世界史を勉強した人ならご存じの通り「黄巣の乱」によって唐は反乱軍に都・長安から追い出され、かろうじて都を奪回するものの、都周辺だけ統治するだけのローカル国家になりさがっていました。
この頃はすでに遣唐使どころではない状態だったのは宮廷幹部の誰もが知るところだったはずです。
仮に遣唐使の船が中国にたどり着いたとしても都までの陸路は唐の管轄外を通る可能性が高く、危険極まりありません。
では、なぜこんな状態と知りながら遣唐使の話が持ち上がるのか? これがまったくの謎なのですが、私なりに推理してみました。
■なぜこの時期に遣唐使?!
「遣唐使を派遣するフリだけして権威を高めるため」??
「道真に遣唐大使の役職手当を与えるため」??
「藤原氏が道真を追放するため」??
などなど、諸説・珍説ありますがどれも根拠がうすく納得できません。
「唐の役人から『遣唐使を派遣せよ』という要請が来たから」ということを理由とする向きもありますが、一役人の要請だけで国家の大事業が決定されるはずもなく。
これは日本目線で考えるとわからないように思います。
視点を変えて唐目線で見ると…(ここから完全に個人の推測です)。
遣唐使の理由を推理してみると!
おそらく反乱軍にボコボコにされた唐の皇帝は権威ガタ落ち。このままいくと味方にも逃げられるでしょう。
そこで「まだワシには外国の子分どもがおるぞ!」と、他国よりもリードしていることをアピール、権威付けのダミーで遣唐使のジェスチャーを要請したのでは?という推測です。
「外国の子分いるならまだウチの大将のほうがマシかな」と思わせるために遣唐使を要請…。
では、日本の立場は?
■日本の立場は?
唐がボロボロなのは周知。でも先行きはわからない。唐復活の可能性も十分ある。ヘタに動かず「親分!では早急に伺います!あ、でもちょっと…新羅(朝鮮)の海賊の野郎が九州にちょいちょい来やがりまして、あいつらやっつけてから…ゴニョゴニョ…」とかなんとかグダグダ言って、狡猾に時間稼ぎしてたのでは…と想像するのです。
その妄想?に合致するかのように、遣唐使停止が決まったあと、何年も道真の役職は「遣唐大使」のまま。
つまり「今は停止してるけど落ち着いたら行きま~す」というポーズを取り続けていたのです。
道真の肩書から「遣唐大使」が外れるのは停止が決まってから更に数年後。しかしなお、副リーダーの紀長谷雄の肩書はずっと「遣唐副大使」でした。