「冥王星」ーあいみょん『アンサーソング』
かつて仲の良かった彼女のメールアドレスの末尾に、「vesper」の文字が入っていた。
「ねぇ、"vesper"ってどういう意味?」
流行りの文庫本とRADWIMPSのCDを抱えて、ボクは彼女の家の玄関先で話をしていた。
「"冥王星"って意味だよ」
「"冥王星"! かっこいいね!」
ボクがそう言うと、彼女は細い切れ目をさらに細めて笑った。
「ね、いいでしょ?」
ボクは彼女とただ一度だけ、形式的なデートをしたことがある。
言葉も経験も何もかもが不足していたボクの気持ちは、ついに彼女に届くことはなかった。
彼女と結ばれることはなかったけれど、ボクの人生の中では、最も恋愛らしい大切な思い出だ。
彼女はその星のような輝きを放ったままボクの元を離れて、どこかへ行ってしまった。
冥王星。
社会的に姿を消したその星は今も、ボクの心の中で微細な光を放ち続けている。
小さな市民ホールを出て、ボクは彼女に「つまらなかったね」と言った。
もっと気の利いた言葉をかけたかったけれど、本当につまらなかった。
彼女も「つまらなかったね」と笑った。
高校生活最後の夏、よく晴れた日曜日。
ボクは彼女と地元の小さな演奏会に来ていた。
名前も知らないポッチャリしたソプラノ歌手の定期公演だった。
当時のボクはギターを始めてもいなければ、さほど音楽にのめり込んではいなかった。クラシックなんてもってのほかだ。
何てことはない。彼女と出かける口実が欲しくて粗探しして見つけたのがその演奏会だった。
どうせ断られるだろうと思っていたが、何と二つ返事で「いいよ!」と返ってくるものだから、相当舞い上がっていた。
演奏会が終わった後は、地元民御用達の海に面したレジャー施設へ遊びに行った。
そこで3時間ほど過ごした筈なのだけれど、何をしたのかよく覚えていない。
覚えていると言えば、ゲームセンターのエアホッケーでボロ負けして何回もリベンジしたことと、「ごめん、ノープランなんだ」と白状したら「だと思った」と笑ってくれたことくらいだ。
その実薄っぺらなデートを、
ボクは十分に楽しんでいた。
彼女もそうであったら嬉しい。
そうであってほしかった。
ノープランであることを白状したボクに、彼女は「海を見に行こう」と言った。
ノープランであるボクはそれに従うしかない。
施設を出てすぐ目の前には広大な………というわけではなく、小さな入り江がある。場所によっては海を一望できるから、彼女に移動しようと伝えると、「ここでいいの」と笑った。
記憶の中の彼女は、いつも笑っている。
ボクらは手を繋ぐこともなく、一定の距離を保ったまま隣同士で歩いた。入り江の端に沿ってあてもなく歩き続けた。
古い建造物の裏側に誰も気づかないであろうオンボロの公衆トイレがあった。子どもの頃に渡った小さな橋が取り壊されていた。いつも日曜日に開催されているフリーマーケットが中止になっていた。ボラの群れが泳いでいた。黄色い三角コーンがいくつも強風で吹っ飛ばされていた。
彼女とはたくさん話をしたはずなのに、覚えているのはそれに付随する景色ばかりだ。
何時間も何時間も話して、たくさん笑ったはずなのに、唯一はっきり覚えているのはRADWIMPSの話だけだ。
ボクが4枚目のアルバムが好きだと言うと、彼女は3枚目の方が好きだと言った。そもそもRADWIMPSは彼女が教えてくれたバンドだ。
恋を知らないボクは彼らの音楽に惹かれ、やがて彼女に惹かれた。
日も暮れてきた夕方の7時ごろ。
夏場のこの時間はまだ薄ぼんやりと明るい。
別れ際、ボクは彼女に「一緒に写真撮らない?」と言った。
彼女は「いいよ」
とは言わなかった。
彼女は無言でボクの隣に駆け寄る。
肌も服も触れ合わないまま、ぴったりとくっついて。
携帯電話を手にしたばかりのボクは、インカメの付いていないガラケーを逆手に持って、不器用に操作しながら何枚か写真を撮った。
納得のいく写真を二人で確認して、「あとで写真送るね」と言うと、彼女はまた無言でコクリと頷いた。
彼女はもう、笑ってはいなかった。
彼女があまりにも自然に「またね」と言うので、ボクも彼女に「またね」と手を振って背を向けた。
彼女と別れて帰路につく。
信号待ちでぼーっと待っていると、
背後から彼女が不意に抱きついてきた。
当時17歳だったボクには、
突然のことでわけがわからない。
けれど、28歳になった僕は気付いている。
古着屋で買ったロングコートと、ネットで買った銀河時計、amazarashiに憧れて買ったツバの広いハットを身に付けて、僕は肩越しに振り返る。
真っ白なTシャツに、丈の長いスカート。ドキッとしてしまうほど色素の薄い肌。ボクよりも細い切れ目と、左側にポツンとついた泣きぼくろ。
記憶の中の彼女は、
いつまでもあの日のままだ。
彼女は僕の目をまっすぐ見て言う。
「ねぇ、海行きたいね」
僕はもう知っている。
彼女との恋が報われないことも。
彼女がボクから離れていくことも。
「vesper」の本当の意味も。
僕は彼女の手を解いて、振り返る。
夕闇に溶けて少しだけ影の薄くなった彼女は、まっすぐにボクを見つめる。
僕は言った。
「ありがとう。
さよなら」
色を失った彼女に手を伸ばすと、
彼女はあの日の笑顔のまま
ゆっくりと夜に溶けて、消えていった。
ボクが過ごした愛おしいあの日々は
僕の知らない遠い空の向こうで
今も星となって輝き続けている。
28歳になったボクは、
まだ恋を知らない。
ーボクたちはみんな大人になれなかった
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