見出し画像

いつかのっとかむ 不確かな輪郭をなぞる

この作品は「いつか」の不在から始まる。

ここ、元映画館で、新作映画の試写会が開かれるのだが、肝心の監督がいないのである。

無理矢理に始まった試写会は、黒澤なぎさの持つPCの不具合により映像が止まり発煙。

PCを奥に持っていき水を流す音。

消火はしたが、下水に流れていった記録、記憶。

それをきっかけにして、転換。

それぞれの過去が明らかになっていく。

元映画館のパワハラ炎上事件や、そこに至るまでの経緯、大学時代の映画サークル、小学校、中学校や家庭のなぎさの所在なさや、元映画館での日常などが溢れる。

そうして歪みを抱えた過去を辿るにつれ、とある可能性を示唆させる描写が増える。

それは吉田いつかが黒澤なぎさの別の人格であるという描写だ。

それが明らかになると、それまでの噛み合わない会話が全て意味を持つことに気づき震える。

腹違いの妹、吉田ゆきの存在や、(彼女に関しては実存していない=さらなる別人格かイマジナリーな存在に受け取れる描写もあり意見が分かれるところかもしれない。)いじめを受けるなぎさの苦しみが「吉田いつか」を生み出した。

2人は最初こそ一心同体だったが、次第に社交性の高い、吉田いつかの人格が黒澤なぎさを追いやってしまう。

映画館の館長はそれをいち早く察して、いつかがいなくてもなぎさが生きられる術をとなぎさを諭す。

互いに言い合い、傷つけ合う登場人物たち。

その黒い感情が溢れきったころ、突然、映画を撮ろうとなぎさが言い出す。

場面は変わり、いつかに呼ばれて来たという今村美和の歌声が響くと次第に雪解けが始まる。

通常、「光があって影がある」と表現するが、劇中、歌詞や台詞に「影があって光がある」とする部分があり実存の証明には影の方が実は重要なのだと感じさせた。

そして、大学の同級生で館長の息子であるヒロこと岩井裕和がなぎさに告白。

いつかではなく、なぎさを”恨み”続けていくと言う言葉を投げかける。

いつかばかりが注目を浴びる中、なぎさを見ているというそれは、彼女がなぎさとして生きていく道標に聞こえた。

吉田いつかが来ないことで、黒澤なぎさにとっての「いつか」が来るのである。

開演前からドアの前で待つ観客に開演が押してしまうと言うやりとりを聞かせ、どこまでが本当の出来事でどこまでが演出か、現実と舞台の境界線が曖昧になっていく手法が舞台への没入感を増す。

劇のラストにはにそのシーンが観客が中にいる状態で繰り返され、(個人的にはエヴァ旧劇の演出が想起された)止まっていた時計も動き出していた。

元映画館という場所の物語を盛り込み、フィクション、ノンフィクションをないまぜに、劇中のスモールトークでも、TOMATOのあたりとのセリフがあり、場所のリサーチも反映されている。

画像1

日暮里繊維通りのTOMATO

ここにあること、ここであることが見事に表現されている。

バグるPC 画面には、ウクライナ、ロシアの文字やTwitter、TikTok など、今を切るとるあれこれ。小学校時代には、羞恥心を歌ういつかとゆき。

それぞれの時代のリアリティが反映されている。

2階の映写スペースやスクリーンはもちろん、スピーカーや、防音扉など環境を最大限に活用したのも、この場所ならでは。

場面転換も、PCというメタファーを使ったり、映画を撮ろうとすると現れた今村にギターを弾かせる事で音楽を追加したりと飽きさせない。

この情勢の中で苦しい状況に置かれた舞台や映画館。演者と観客がゼロ距離のこの舞台は、配信ありきの風潮へのアンチテーゼだろう。

この場にいて、観客も舞台の一部であると感じさせる意図が以前、二酸化炭素でも見られた観客の上をロープが行き来する演出や、入場映像の即時映写などからも感じ取れる。

演者も、様々なジャンルから参加し、それぞれの強みや特性を活かした配役が一層舞台を映えさせていた。

人は誰しも見えないものの輪郭をなぞっては安心したがる。

いつかという存在を通して、人間の不確かな実存性を問いかける作品。