犠牲と補正 『お守り』のもらえない日本で、
日野さんの舞台は今までも感情をぐらぐらと揺らし、深く人生について考えさせられるものだった。
最初は湯木慧さんというアーティストの作った曲が使われるからという理由だけで観に行ったに等しいのだが、彼の抉るような社会の描写に引き込まれていった。
今回、更に舞台へ僕自身を深く沈ませたのは、ALS嘱託殺人というショッキングな事件を、リアルタイムで知っていたことや心身の不自由さを抱えるひとの近くに僕がいることが理由なのだろう。
自死という選択が海の向こうで合法になったニュースも記憶に新しい。フォロワーさんもそれに言及していた。なにより僕自身もそれから目を背けられなかった。
真琴というALSの女性の心内世界から始まった舞台は、その苦しみを可視化するような深海のような表現。何も見えず指先さえ動かすことも困難な中で意識はあり、周囲の音だけ聞こえてくる。
その演出は、不穏な水の効果音も合わせて、こちらも息が苦しくなる様だった。日野さん自身ALSを想像しつつ書いたのだろうが、その苦しさは確かに伝わるものがあった。
しかしながら、富田家の日常は動けない真琴とその介護で疲弊する父の直樹、その全てを無視し続ける妹の沙世と複雑に絡み合う外部とで構成される。
富田家を更に追い込むのは先に述べたALS嘱託殺人によって死を選んだ母、かおりの存在とその自死を依頼され実行した加害者、高坂大樹とその弟能村雪次。
雪次は罪の意識と共に、被害者と加害者を混同する世間の反応から被害者家族である富田家と共感を得たいと接触を試みる。
それを拒絶しつつも心から怒ることのできない富田直樹。
それは、どこかでかおりの自死が彼女自身の救いであったことを認識しているからなのだろうか。
舞台の各所で見受けられる噛み合っていない一見意味のないような会話は崩れていく日常を表している様でもあった。
ここにさらに人間関係をややこしく密にするのが、真琴の介護に訪れる介護士森山光。
ここにある種、日野さんならではの脚本の妙があるように思える。関係性の複雑さを絶妙に書き切る能力を感じさせる。
ここまで複雑に入り組んだ関係性かつ、ALSという難しい題材を扱いつつもひとつの家族劇として描き切る技量は圧巻としか言いようがない。
自死が合法であるスイスのマッターホルンと、富田家から見える富士山との対比がどこか切なく繋がるのは虚しささえ覚えた。
最後の「ここじゃお守りもらえないから」という加害者高坂大樹の言葉がどうしてもわからなかったのだが帰りの電車の中でALSの記事を巡っていてそれを見つけ、更に寒気がするほど日野さんの描くそれを畏れた。
日野さんの奥底にあるものは計り知れない、同時に恐ろしくもある。
しかし、そんな彼が描く家族像はとても愛おしい。今回もまたどこまで行ってもとある家族物語の顛末であり、切なくもありつつどこか希望を持たせている。
最後に直樹がかおりが自死した二階へ向かう演出は天国への階段の様に光に溢れていた。
真綾さんの演技は初舞台とは思えない程で明るい声と怒鳴り声の使い分けや声自体の表情が場面に則しつつ手にとる様にわかった。役者としての表現をする彼女の第一歩とこれからの大きな活躍を感じさせた。
コロナ禍において様々な体験が減った今、僕にとってこの1時間の舞台は瑞々しい衝撃とともに思考のスイッチをオンにするものだった。
この舞台のタイトルを犠牲と補正とする感覚や、このご時世にPandemicDesignという批判さえ食らいかねない名称でプロジェクトを立てる日野さんには敬服と畏れを抱く。
新たな企画への準備も始まっている様でそれが怖くもあり、待ち遠しくもある。