踊らなくても焦点を合わせよう、の日記
行き場のない気持ちになることが多い。
こういうことにずっと身を浸していると自分もひとを遠ざけるし、ひとも私に近づきたくなくなる。
今までどちらかといえば少なくとも表面的には楽観的に無邪気に過ごしてきたので、少なくとも自分が開こうとした時にはひとに受け入れられることが多かった。
でも、こういうふうに懐疑的で厭世的になってそれを長くながく続けてしまうと、排気ガスのようにそれが肌やわたしを包む空気を覆って、くすませて、触れたくないなという気持ちにさせてしまうことは良く知っている。
面倒臭い大人になったな、自分のことをやれやれ、と思うこともあるけれど、でもこういう風にしか有れないのだから仕方ないな。
コラおじさんを目指そう、と友達と話したじゃないか。
でも今の私は、コラおじさんとしてひとを叱るよりまず自分はどうなんだよ、という気持ちがずっと胸の奥でくすぶっていて、あまりに長くくすぶらせていたからそれがカチカチの固形になって、自分の根っこをがさがさと揺さぶっている。
揺さぶるけど錨みたいに体をがっちりと留めてもいる。
焦燥ばかりで眼の前のことに集中できない。
集中できないなんてただの甘えだぞとハッパをかけるのに、なんだかガンとして動かない。
集中できないといえば、一度深く絶望すると今までできていたことがうまくできなくなったり時間がかかりすぎたりするというのは本当なんだろうか。
自分は若年性アルツハイマーなのではないかと真剣に心配するほどに、何をするにも時間がかかる。
秒単位で一日いくつもの仕事をこなしていた自分のことが、なんだかものすごく遠い。
病気だったらどうしよう、まあ私のことだから病気じゃないな、思い込みだ。思い込み次第でなんとでもなるにんげんだもの。
思い込んだだけで180°開脚がすんなりできるようになったし、足もすごく速くなった。
自己暗示をかけるのがうまい。
くすぶって、沈んで、悔しかったり怒ったりしてどうしようもないとき、私はやっぱり踊るのが良いのだった。
カナダで大怪我をして動けなくて飢えそうになった時、天井の高さが1.2mの4畳半に住もうか迷ってやっぱり窓のある普通の部屋に住むことを決めたときくらいから、人生は今の手持ちでなんとか持ちこたえるだけのものであるような気持ちになっていた。
もうすぐ人生は終わる、その何年かをじっとなるべく色んなものを温存して細く生きたらいいんじゃないか。
怪我をしても病院に行かなかったし、歯が折れても歯医者にも行かなかった。
死ぬまでなんとか保つだろう、保ってくれ、とそればかり考えてた。
せめて身内がいなくなるまで我慢できればよい。
けれどもう今はそうじゃない、そうであってはいけないのに、その時の貧乏根性が残っていて2時間で18€もするレッスンになかなか怖くて行けない。てへへ。
もういいオトナなのに、教えられるよりもう教える年齢で立場のはずなのに、相変わらず何かを習ったり発見したりするのがとても好きなので稽古は好きで、でもだからこそ何やら自分の楽しみのために無駄遣いをするような気持ちになる。
そろそろ舞台に出るしいいよね、と稽古を増やしてみているが、やっぱり踊ると楽しいのだった。
体に何かを打診して、要求して、それにレスポンスが返ってきて、協力しあいながら一緒にいまの時間や空間を体験することが、それだけが私の感覚の焦点をぎゅっと絞ってくれる。
急に視界がクリアになる。
色んなものの輪郭がはっきりする。はっきりしながら、同時に他のものと溶ける。
時間を操作する。
思い切り頭を床に落としても、股関節はそれをしっかり床にぶつからない位置で留めてくれる。
体重が軸足で支えきれなくなっても、指の骨がそれを引き上げてくれる。
空気に色んな強度で絵を描く。
空気の粘度が変わる。
切り裂くのも、浮かぶのも、毛穴ひとつ、壁のむこうの空のこと、鳥のさえずりが近くに聞こえる、倒れてきた人がゆっくりに見える。
今日は腕の重さ、肉の重さや骨の重さ、肘から先の重さなのか手首から先の重さなのか、そういうことを30分くらいずっと考える時間があって、その時に雨が降ってきた。
稽古場には大きな天窓があるのでそこにぱたぱたと雨が当たり雫が生まれ、ゆるやかに流れていく。
視界の端から真っ黒い雲が近づいてくる。
鳥が慌ててどこかに飛び去る。
私はそのあいだ、ずっと腕のおもさのことをただかんがえている。
17歳のときからずっと踊ることにしか救われない部分がある。
そろそろ、このたからものを、だれかに手渡していくことを考えなきゃ。