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『白い城』、2年前のことや5年前のこと

12:06

昨日の夕方から風が強い。
窓のまえの枝が大きくしなってこちら側に向かってくる。これ以上この枝を伸び放題にしていてはだめだな、危ないし部屋が暗くなってしまう。

ふとしたことで黒井岬さんが書いてくれたコラムを見つけた。
私が今でもパフォーマンスの時に愛用して着ている衣装を作ってくれたときのこと。岬さんはどの公演にも来てくれて、口数少なに踊りをじっと見てくれていた。それが心強くもあり、つかいまわしのような踊りはできないという緊張感もあり、あの年のツアーの時間は岬さんの存在とともにあった。
岬さんの最近の活動はこちらで追うことができる。


12:26

あるニュースの映像を見ていたけれど、遺族の吹き替えの声を悲しそうに震わせてみたり、亡くなった方が生前どんなに愛されていたか、ということを強調するのは個人的に不快だし、社会的にも悪影響じゃないかと思う。遺族の方がその語りにおいてどのように振る舞おうとしているかということを冒涜する行為だと感じるし、こういうものがはびこると受け取るこちらも表面的な同情でしかその問題を考えられなくなる。わたしたちはニュートラルな状況、たとえその被害者に共感や感情移入できなくても、あってはならないことはあってはならないと判断しなくてはいけない。自分で判断して考えるという機会をどこまで剥奪するつもりなんだ、と苛立つ。
ものごとを深く見たり考えたりする機会を育まないことこそが、この事件を生んだ土壌に繋がっているかもしれないとは考えないのか。


17:38

「アフリカ」の編集長の下窪さんがnoteに昨日の返信のようなものを書いてくれた。

自分のなかにふたつの相容れない立場があって、それをしじゅう行ったりきたりする。
それは「どんなひとでも書けばいい(踊ればいい/つくればいい)」というものと、「ある基準に満たないものが氾濫しすぎることには抵抗がある」というもの。
どんなひともあらゆることに自由にアクセスできる世界は楽しくて良いと思し(それはもちろん芸術に限ったことではなく)、アクセスできるべき、と思う。それによって思いもかけない優れたものが頭角をあらわすこともあって社会としても楽しい。
でもいっぽう後者のわたしは、あるラインを超えない中途半端なものが身近にあふれるようになると、目に触れるものがみなその程度のものだから現状に満足してしまったり、自分にとって特別になりうるものを嗅ぎ取る感覚が鈍ると考えている。どれもなんとなく薄いから、次から次へと味見してみて、その味わいのなかから発見する過程を踏む前に別の薄いものに手を出してしまう。批評する力も落ちる。そしてその結果、時間や辛抱をかけて積み上げるしかないような分野のものは世界からはじかれていってしまう。はじかれても別の場所で生きることができれば良いが、時間や辛抱をかけて積み上げるしかないようなことをしている人は、器用に別のことで生きながら作り続けられない。つまりそれは、どこかの隠れた才能や、多様のひとつの面を逼迫させることになる。
この10年くらい、自分が場所を作ったり団体に所属したりするなかでいつもジレンマとなっているのはこれだ。
もちろん社会全体の状況が違ったら、もっと気を楽にして色んなものを容認しながら続けることができるのかもしれない。
いや、私が世界をどう見ているか、が変わるしかないのか。


21:26

『白い城』を読み終える。
感想はまだ途中、というか…やっぱり感想を書くのは難しい。わたしの言葉では表現しきれないのだから、せめて本を読みたくなるようなものを書けたらいいのだけれど。
📖『白い城』オルハン・パムク


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アマヤドリ
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