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『Egg〈神経症一族の物語〉』第3部 第三十一章

 高藤隆治が2か月ぶりに自宅に戻ると、真っ青な顔をした妻の恵美が駆け寄り、彼にしがみついた。
 「ああ、よかった! あなたが帰ってきてくれて!」
 「由美はどうなった?」
 「それが……部屋に閉じこもったまま、もう3日になるの……」
 
 クリスマスイブだからと買ってきた3人分のケーキを恵美に手渡し、隆治はコートを脱ぐと、すぐさま2階に上がり、娘の由美の部屋のドアをノックした。
 「由美、お父さんだ。クリスマスケーキを買ってきたよ。一緒に食べないか?」
 
 しかし、部屋の中からは何の応答もない。隆治はドアノブを掴み、押し開けようとしたが、板が何枚も打ち付けられているらしく、びくともしなかった。
 1階に降りてきた彼に、恵美が不安そうに尋ねた。
 「どう? あの子、返事をした?」
 「いや、何も……。なあ、中で倒れてたりしないよな?」
 「時々物音がするから、まだ生きているのは確かだと思うの。でも、ご飯も食べてないし、トイレに行った様子もないから心配で……。それに、あの子が何を考えているのか、まったくわからないの。ねえ、ドアを壊してでも中に入ったほうがいいんじゃない?」
 
 「そうだな……」
 隆治は頷き、ガレージの物置へと向かった。そこにあるはずのバールかのこぎりを探したが、工具一式が丸々無くなっている。
 
 「おい、ここにあった工具はどこに行ったんだ?」
 物置から戻ってきた隆治の声に、恵美ははっとした様子で答えた。
 「ひょっとして由美が持って行ったんじゃない?」
 「閉じこもるために……工具を全部使ったのか」
 隆治は頭を抱えた。想像以上に厄介な事態だった。
 
 そのとき電話が鳴り、恵美が「あ、お母さんだわ」と呟きながら玄関へ向かった。由美が閉じこもってからというもの、不安に駆られた恵美は実母や実兄の妻、さらには義母や義妹にまで相談していたという。
 「僕の家族にまで連絡をするなんて……」と隆治は少し恨めしく思ったが、この異常事態を一人で抱えるのは無理だっただろう、とも理解した。そして、一日でも早く戻らなかった自分を呪いたい気持ちになった。
 
 30分後、電話を終えてリビングに戻ってきた恵美に、隆治は問いかけた。
 「それで、由美はどうして閉じこもっているんだ?」
 「何度も言ったけど、理由がわからないのよ……」
 恵美は疲れ切った様子で答えた。
 「兆候なんて何もなかったもの。あなたの資金繰りがおかしくなった後も、あの子はバイトを増やして嫌な顔一つせずに協力してくれたくらいで……。でも、そうね、しいて言えば……由美の貯金を手切れ金に使うことになったとき、あの子、かなりショックを受けてたかも……」
 
 「つまり僕のせいってわけか」
 隆治の胸にチクリと痛みが走った。今日こそ由美に礼を言い、これからのことをきちんと話そうと思っていたのだが、それどころではない状況に、落胆の念が広がる。
 
 恵美は続けた。
 「でもね、最後にはあの子も納得してくれたのよ。それに、お金の話が本当の原因かどうか、私には確信が持てないの……」
 二人は同時にふうっとため息をつき、リビングには重い沈黙が漂った。
 
 その空気に耐えかねた隆治が、苦笑いを浮かべながら提案した。
 「なあ、せっかく買ってきたんだし、ケーキを食べようよ」
 「あ、そうね!」
 恵美も取り繕うような笑顔を浮かべる。
 「3ピースあるから、1つは由美の分として残しておくわ。あなたはどれがいい?」
 「お前が食べたいのを選べばいいさ。俺はどれでも構わない」
 「じゃあ……私はモンブランにする。由美はイチゴのショートケーキが好きだから、あなたはフルーツタルトでいい?」
 
 リビングのテーブルで、久々に夫婦二人きりで食卓を囲んだ。ドリップしたコーヒーの香りがほのかに漂い、ケーキの甘い味が口に広がる。それでも、2階に閉じこもる娘の存在が二人の心を重く押しつぶし、本来なら安らげるはずの時間はかすかに苦さを帯びていた。
 
 隆治はフォークを皿に置き、意を決したように言った。
 「明日、ホームセンターでバールを買ってくるよ」
 「え?」
 「由美がどう思っているにせよ、明日になれば4日も閉じこもっていることになる。さすがに心配だ。だから、ドアを壊す」
 「そう……そうしましょう!」
 恵美の目に涙が浮かんだ。彼女は震える声で続けた。
 「きっと由美も、何か私たちに伝えたいことがあるはずよね……!」
 
 隆治は静かに頷いた。ケーキの皿を片付けながら、心の中で決意を固める。この家に戻るまでの2か月間、自分がどれだけ家族を遠ざけていたか、改めて思い知らされる夜だった。



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