『Egg〈神経症一族の物語〉』第2部 第七章
夏休みとはいえ、朝の電車は出勤するサラリーマンや遊びに行くお母さんと子供たち、単語帳を真剣な目でめくっている受験生なんかでかなり混んでいる。
オレこと高藤哲治はつり革につかまって、流れていく車窓の景色をぼんやりと眺めていた。
そんな中、ふと終業式の日のお父さんのセリフを思い出した。
・・・
「なんだ、この成績は!!」
1学期の終業式の日、珍しく早めに帰ってきたお父さんはオレの通知表を見た瞬間、怒りを爆発させた。
「哲治、こっちに来い!」
夕飯のためにキッチンに降りてきていたオレは、ものの見事にお父さんにつかまった。のろのろとリビングに入り、ソファに座っているお父さんの向かい側の床で正座する。お父さんが吠えた。
「英語・数学・国語・社会、4教科が1とはどういうことだ!」
オレはちらりと自分の通知表を見た。うちの中学は1~5の5段階評価のはずだけど、なぜかオレの通知表には1と2と3しか数字が見当たらない。 それでも中1のときに1だった理科が奇跡的に3に上がっているんだ。ここはほめてもらえてもよさそうなものだけど、お父さんの目には入っていなかった。
顔を真っ赤にしたお父さんがまた吠える。
「塾の回数も増やしてやったのに、また成績が下がっているのはどうしてだ! 説明しろ!!」
どうしてかって言われても、自分でもよくわからない。
そもそも小1のころから、オレは勉強に挫折していたんだから……。
小1が始まったばかりのとき、国語の授業で出た最初の宿題が今でも忘れられない。
「あ」という字を国語のノートの片面に繰り返し練習しろって言われたんだけど、オレが書くと字がはみ出てばかりで、マス目にきちんと入れられないんだよ。
しかもさあ、みんなわかってんのかな? 「あ」って、すごく複雑な形をしているんだぜ。
「い」とか「に」みたいに、まっすぐな線だけならまだマシなんだけど、「あ」はぐるりと線を回転させないといけないし、それを先に引いた縦棒と合体させないといけない。
しかも、線をぐるりと回転させながら、引き始めの部分をちょこっと外に飛び出させつつ、まるーく線を引かないとアウト!
ちゃんとできなかったら、文字としてはハズレだから、消しゴムかけて書き直せ!って言われるんだ。
お母さんに「終わるまで席を立ったらダメ」と言われたから、オレは学校から帰って丸3時間、机の前でぐにゃぐにゃとした線を小さなマス目に閉じ込めることになった。
それでも全部はできなくて、途中で逃げ出したオレをお母さんが捕まえて、夕飯のあとにまた2時間やらされた。
やっとのことでノート1ページ分を埋め終わって、これでようやく解放された!と安心していたのに、それから毎日毎日毎日毎日この地獄が続いたんだ。
勉強が大嫌いになったのも、このせいだ。しかも、イヤイヤやっているから、オレはひらがなを小1で覚えきることができなかった。
そして他の教科も覚えないと丸がもらえないヤツばっかりだから、オレは国語・算数・理科・社会の主要4教科で最初からつまずいて、そのまま中学生になってしまっている。
だからさ、いくら塾に通おうが、小学校のころからの“わかんない”がものすごーく一杯積み重なってて、中学校の勉強なんてチンプンカンプンもいいところなんだよ。
そんな状態でこの成績なら、不思議でもなんでもないと思うんだけど……。
オレみたいなバカを全く理解できないお父さんは、貝みたいに口をつぐんでいるオレの姿にしびれを切らして怒鳴った。
「黙っていたらわからんだろ! 自分のことすら説明できんのか!」
お父さんのイライラ攻撃が、ずばずばとオレの体に刺さってくる。こめかみが痛みでうずき出して、その不愉快さにオレもイライラする。
ついに我慢しきれなくなって、思わず叫んだ。
「うるさいな! 頑張ってもできなかったんだから、しょうがないだろ!!」
パーン!
途端にお父さんの平手がオレの頬を張り飛ばした。
「親に向かってうるさいとは何事だ! お前の頑張りが足りないんだろうが! そんな言い訳が通用するほど世の中は甘くない! 謝れ!!」
ぶたれた頬を押さえて、お父さんをにらみつける。口の中が切れて血の味がしてきた。もう限界だ!!
オレはがばっと立ち上がった。二人で立ったままにらみ合う。オレは叫んだ。
「大声出してるお前が一番うるさいから、うるさいって言ってんじゃないか!」
お父さんの顔がみるみる紅潮してきた。
「父親に向かって、”お前”だと!!」
もう一度叩こうと右手を振り上げたお父さんを見て、オレは力いっぱいお父さんを突き飛ばした。
お父さんがソファに吹っ飛んでいくのを横目で見ながら、オレはダッシュで玄関から飛び出した。
「哲治!!!」
お父さんの大声で、うちのシュヴァルツや近所の犬が狂ったように吠えたてる。隣のおばさんが垣根の向こうで驚いたようにこっちを見ている。
オレはみんなに辱めを受けている気がして、猛ダッシュでその場から逃げ出した。