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『Egg〈神経症一族の物語〉』第3部 第七章

 今日は日曜日。珍しく朝からお父さんの高藤隆治が自宅にいるせいか、食卓にはサラダやフルーツも出ていて盛りだくさんだ。3人揃ってキッチンのテーブルにいるのは久しぶり。わたしこと高藤由美はお母さんの恵美と向かい合った席に座った。
 新聞を読んでいたお父さんがわたしに尋ねる。
 「由美、就職活動はどうなっているんだ?」
 わたしはコーヒーに口を付けてから答えた。
 「うん。この前会社の面接を受けてきたよ」
 お父さんが新聞と老眼鏡をテーブルに置いた。
 「そうか! どの会社だ?」
 お父さんとお母さんの期待をひしひしと感じながらわたしは答える。
 「『江戸本リース』っていう会社だよ」
 「リース会社か」
 お父さんの声に硬さを感じる。わたしはじっと次の言葉を待った。
 「去年バブルが崩壊してから、リース会社の取扱高は昨年比2割減で流血が止まらないと聞いているんだが、会社はしっかりしたところなんだろうな?」
 わたしはこくりと頷いて答える。
 「自動車リースがメインで大手企業とお付き合いが多いから安心してくださいって人事の人が説明していたよ。営業職として採用されるから…」
 「営業だって!?」
 急に大声を出したお父さんをわたしはびっくりして見つめた。お父さんが怒ったように言う。
 「由美、営業はダメだ。外回りの仕事は歩いてなんぼの泥臭い仕事だぞ。お前に向くわけがないだろう!」
 「でもっ!」
 わたしは焦って話を続ける。
 「男女平等に実績で評価されるやりがいのある職場だと、OBの先輩もおっしゃっていたし。知らない世界だから思い切って飛び込んでみるのもいいと思って」
 ふううっとお父さんがこれみよがしにため息をついた。
 「離職率は調べたのか?」
 「え?」
 戸惑うわたしをちらりと見てお父さんが言う。
 「男女平等ってことは、女性にはきつい職場だということだ。6年前に『男女雇用機会均等法』が施行されたが、男性の働き方に女性が合わせるのは厳しすぎるんだ。
 何より女性は子供を産むだろう? 第一線でずっと働ける人なんて生涯独身を貫く人くらいなんだよ。こんな状況だから、総合職の女性の離職率は案の定高くなっている」
 データを探して分析し、それを自分の雑誌で記事にしているから、お父さんの指摘はいつも鋭い。総合職で働いている女性で辞める人が多いなんて知らなかった。
 お父さんが話し続ける。
 「由美が見つけてきたそのなんとかっていうリース会社も、真っ先に『男女平等』なんて言っている時点でかなりうさん臭いぞ。人海戦術で営業をかけるために、男女関係なくたくさん人を雇っておいて、ついていけない社員を使い捨てにしている会社だという可能性はないのか? その辺をきちんと調べないと後で悔やむことになる」
 わたしはコーヒーカップを両手で抱えて、黒い水面をじっと見つめた。絶望感が胸までせり上がって来る。下腹がぐるぐると鳴り始めた。
 「あなた……」
 お母さんがお父さんの肩に手を置いて、それ以上言わないでという仕草をした。お父さんが咳払いをして、妙に優しい声でわたしに言った。
 「あのな、弘子おばさんを覚えているか?」
 弘子おばさんはお父さんの義理の妹だ。とてもきれいな人だけど、短気で怒りっぽいからほとんど話したことはない。
 息子の正彦君とはいとこ同士だから小学生のときは帰省すると一緒に遊んでいたけれど、あの事件が起きて以来すっかり疎遠になっていた。
 「うん、覚えてる……」
 下を向いたままわたしが答えると、お父さんが話を続けた。
 「弘子おばさんは今東京にいる。日照大学の学長の二号さんになったんだよ。
 それでな、おばさんにお願いして、由美が大学の事務員になれないかと頼んでみたんだ」
 わたしはびっくりしてお父さんとお母さんを見た。お母さんがほほ笑んで言う。
 「由美、日照大学は日本で一番大きな私立大学なのよ。結婚どころか出産したって働き続けられるし、お給料も結構いいのよ。一生安泰に暮らしていけるわ!
 それにあなたを苦しめる就職活動もこれで終わりにできるのよ!」
 お父さんが畳みかける。
 「明後日、おばさんのところに行ってきなさい。おばさんが由美と話をしてから、学長に推薦してくれるそうだ。
 なあに、親戚なんだ。緊張する必要はない。履歴書と志望動機だけ用意しておけば大丈夫さ」
 わたしは言葉もなく、両親を見つめた。固く握りしめた拳はいつの間にか手汗でぐっしょりと濡れている。
 そうか、すでに何もかもお膳立てされてしまったのか。大学だって受験に失敗して四浪して、お父さんが探してきた今の大学に滑り込んだっていうのに……。わたしが不甲斐ないばっかりに、今度は就職まで決めてもらうことになってしまったのか……。
 
 大学受験に失敗してからというもの、わたしは自分のことを自分で決めることができなくなっていた。高校までは順風満帆だったわたしの人生。東大にこだわりすぎたのがいけなかったのだろう。初めての大失敗になすすべもなくうろたえていたわたしを、それから四浪しても支えてくれたのはこの両親だ。
 そして就職活動で他の人たちのように自分に合ったいい会社を探すことができなくて、気分が落ち込むあまり大学にすら通えなくなってしまったわたしを手伝おうと、今だって両親はこんなに手を尽くしてくれる。ついこの前だって、わたしが大学に行けなくなった精神的な問題を解決しようと、有名な心療内科を全国で探し回ってくれるほどだったのだ。
 だけど、なぜなんだろう。そうやって両親に愛情を注がれれば注がれるほど、わたしはどんどんどんどん自分がダメ人間になっていくように感じてしまう。
 だからこそ、就職活動だけは自力でやり切りたいと決意していた。社会に出るためのイニシエーションが就職活動なんだから、今度こそ自分の道を自分で切り開こうと必死に努力していたのだ。それなのに、それなのに……。
 自分が情けなくて目の前が涙でにじんでくる。ああ、泣いちゃダメだ。両親にまた心配されちゃう。
 「由美?」
 お母さんが不安そうに向かいの席でわたしの顔をのぞき込んだ。わたしは慌てて下を向いて言い訳をする。
 「……急な話ですごくびっくりしちゃって」
 お母さんがうんうんと大きく首を縦に振って相槌を打った。
 「そうよね、まさかこんな形で就職を決めるなんて、予想もつかなかったわよね。私もお父さんから話を聞いたときはびっくりしたもの!」
 お父さんも笑ってコーヒーをすすりながら返事をする。
 「いや、僕もね、まさか弘子が日照大学の学長とコネがあるなんて思いもしなかったからさ。もっと早くにわかっていれば、就職活動で由美があんなに辛い目に合うこともなかったのにな」
 すっかり和んだ空気を自分のちっぽけなプライドのためにぶち壊す気にはとてもなれない。
 わたしは無理やり口角を引き上げて、両親ににっこりとほほ笑んだ。
 「色々と考えてくれてありがとう。明後日弘子おばさんの面接を受けてくるね」
 二人がほっとした様子でわたしに微笑みかける。わたしは席を立った。
 「あら、ご飯もういいの?」
 お母さんがわたしの背中に話しかけてくるので、わたしは首を横に振って答えた。
 「ちょっと夏バテっぽくて。ごちそうさま」
 お皿を流しに運ぶと、わたしは自分の部屋に戻り、扉を閉めた。

 

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