海と砂粒
海の見える町で過ごしたのは幼年期からはたちくらいの間までです。海は本当に見えるだけで、実際の海岸に行くのには自転車で40分ほどの距離がありました。それに小高い丘に囲まれた私と両親の家からは海など端っこも見えず、だからそれほど身近な存在ではなかったのです。ただ、通っていた小学校は丘の上にあって教室からは青い水平線がたしかに見えたので、海と、それからときどき見える遥かな富士山もちゃっかり一緒に、校歌に織り込まれていました。歌いながらまあ確かにね、見えるよねと思っていました。町は坂道だらけで、歩けばいたるところに遠い海が顔を出しましたが、子どもの私の目にそれらはただ映るだけでした。
両親の家を出て内陸の街に暮らすようになり10年以上経つのですが、たまの用事で地元を訪ねるとそこかしこから海の覗くことに驚きます。最寄りの駅のホームからは遠いながらも海がくっきりと見え、陽光を受けて青くきらきらと光るのです。空の色や煙突からの白い煙と相まってそれは絵で見る港町のような光景で、思わず「わあ」と声が出ました。それというのも私はこの駅から海の見えることを知らなかったのです。たしかによく晴れた日でなくては見えないでしょうが、20年に届くほどのあいだ利用していた駅です。視界に入らなかったわけはないのですが、住んでいた頃の私には見えていなかったようでした。
過度にその海を有難く思わなかったのは、工場地帯の海ということもあり、海岸まで行ったところでさほど綺麗な浜ではなかったのです。潮干狩りの5月にはバケツとシャベルを積んだ家族の車で海に繰り出しましたが、それ以外ではわざわざ海辺に行くこともありませんでした。岩を渡ればフナムシがいそがしく横切って人間の足をひるませ、波打ち際には巨大な海藻がヘドロのようになって辺りに臭気を放ち、海水浴場と名の付いたエリアもありましたが、泳ぐどころか海水に触れるのもためらうほどでした。つまりは自慢できない海だったので、他の町の住人たちに海の近いことを羨ましがられると、私たちは一様に肩を丸めて「きたない海だし、他には何もないところだよ」などと恐縮するのでした。
高校生になると私は8割の生徒が自転車で通学するというとんでもなく交通の便の悪い公立の学校に通い始めたので、友人も皆自転車でしたから、放課後はなんとなくそのきたない海辺へ連れ立って自転車を走らせることもありました。ピンクのバクテリアにぺったり覆われた波と打ち上げられた海藻と、フナムシ、それに申し訳程度に植えられた松の防風林のほかに見るものはないのですが、箸が転んでもおかしい年頃というのはほんとうで、私たちは海が臭くてもおかしいのでした。腐りかけた海藻を足元に投げあっては海鳥ども顔負けのやかましさでぎゃあぎゃあ騒ぎ、日が落ちかけてくるとヤンキー座りでそれぞれの恋の話をしました。街なかの学校に通う同じ学年の子たちが放課後ゲームセンターにたむろするように、友人らと私は海にたむろしていました。やがて日が落ちてしまうとバクテリアも海藻も薄い闇に覆われて、かわりに遠い夜景がぼんやりと光を放ち始めます。そしてこの海が唯一まともな海とくらべて劣ることのない要素、波音が残るので、この時間の海は丁度良いのでした。まるで普通の海で普通の青春をしているみたい。ただ潮風というにはいろんなものを含みすぎたにおい、塩辛いものが腐りかけてさらに錆びたようなにおいは闇にも溶けず、むわりと鼻をつき、荒い砂粒といっしょに靴や髪にも少しずつ含まれていくように思われました。やがて私たちは自転車を引きずって砂浜をあとにし、海浜公園の門のところへ来ると気だるくて軽い別れの挨拶を交わしそれぞれの帰る家に向けてペダルを踏み込みます。髪をほどき、スカートをなびかせ、染みついた海のにおいを夜風に溶かしながら帰路を走るのでした。
車に乗る人の多い町でもありました。何せ交通の便が悪いので、特に遊びに出るときは皆、車を使いたがりました。高校在学中に免許を取る人も多く、私がはたちのころ、町を出ていく少し前のことですが、そのころには周りの子たち、特に男の子たちは運転する車を持っていました。それは家族の所有であることが多く、日中は自由に使えないので、男の子たちは自然と夜中のドライブを覚えるのでした。もちろん主にはデートに使うのですが、皆運転自体が好きで、恋人でなくてもどんどん車に乗せました。夜中に適当な数人に声をかけ、集まったその場限りのメンバーを乗せて出かけるのです。ドライブの自由は長ければ長いほど楽しいのか、気軽に隣県の観光地や(夜更けなので静まり返っています)、片道1時間はかかる峠の夜景スポットに乗せていってくれ、皆で夜独特の世界を存分に楽しみ、そして誰かのあくびを合図にしたみたいにあっさりと解散しました。
だから、都会での飲みの帰り道なんか、夜中のターミナル駅で電車が終わってしまっても、焦りもしませんでした。ちょうどメールのやりとりのある男の子に「今○○なんだ」と場所をいうと「じゃあドライブがてら拾いにいくよ」と頼む前から言ってくれたりしました。運転席と助手席のおしゃべりは弾み、街灯とテールランプで照らされてはかげる横顔は、その子がそのときの恋愛の相手でも、そうでなくても、すてきに見えました。送ってもらうだけでは物足りないというこちらの気分が伝わってか、ただ相手も同じ気分だったのか、そういう時になんとなく車が向かう先も、件のうす汚れた海であることが多かったのです。岸壁の近くには夜釣りに来る人か、私たちと似たり寄ったりの理由でここに来た人びとが車を停めほうだいにしていて、車のときは「海」といえば浜よりもこの岸壁を指しました。夜中の海は真っ黒で、胸ほどの高さの岸壁から顔を突き出して見ても波との境目がよくわかりません。そうしていると、波のぶつかってくるトプン、トプンという鈍い音を絶え間なく感じます。その前のドライブでどんなに話が盛り上がっていても、黒い海に目を凝らすときは誰もが言葉少なになるのでした。「夜の海って吸い込まれそうになるよね」と言った男の子が1人でなくいたのを覚えています。普段脳天気に振る舞ったり、まわりに弱いところを見せないタイプの男の子でも、壁から顔を突き出している間は何とも言えない無表情でいるのが隣の気配からわかりました。私の中にはそれを面白く思う部分がありながら、残りの大部分ではやはり眼下の海に釘付けになっていました。境界線のわからない真っ黒の巨大なかたまりに意識を奪われて、自分自身の輪郭も揺らいでしまうような感覚に包まれるのでした。潮風がそれほど冷たい季節でなくとも、身体はすうと冷やされて、もたせかけた手と胸のあたりからひんやりとした岸壁の一部になり、フジツボに覆われ、やがてはこのぬらぬらと揺れる黒い海に飲み込まれてしまうように思われるのでした。
「戻ろっか」とどちらかがやっと口に出すことができて運転席と助手席に戻ると、その場に車を停めたまましばらくふざけた話で盛りあがるか、手っ取り早くキスをしました。そうして身体の芯の体温のようなものを取り戻してからでないと帰ることができないのでした。少なくとも私はそう感じていました。
この海を訪れると毎度似たり寄ったりの感覚に襲われることになったのに、私は繰り返しここに来たし、ドライブの途中でどこに行きたいか尋ねられると自分から「海いきたい」とほざいていることも多いのでした。根源的な恐怖ほど喉元を過ぎればあっさりと忘れてしまうものなのかもしれません。乗り出した胸の下でうごめく海の姿を目にするまではただ、夜中にはしゃいで海を見に来ただけのつもりなのです。しかし再び目にすればすぐに思いだす。輪郭の不明瞭な頼りない自分に一気に引きずり戻されて、気が遠くなる。その繰り返しなのでした。
私はそれから、くすんだ海を臨む以外にはなんの特徴もないその町を出て、都会の隅に部屋を借りてひとりで暮らすようになりました。誰にも相談せず、ひとりで決めました。家族に報告したのも物件をすっかり決めて契約を済ませてからでした。ずいぶんあっさり出てきたものだと思います。とにかくこの土地には何の未練もないし、愛着だってないのに、それにしてはたくさんの記憶を積もらせすぎてしまったと感じていたのを覚えています。そのとき別れて数ヶ月経ち、まだもやもやと関係がくすぶっていた元恋人に引っ越しを手伝ってもらいました。少ない荷物を積んだ車の中で彼には「ここにはいい思い出もいやな思い出も増えすぎて身動きがとりづらいからそろそろ出ていきたくなった」と漏らしました。
「でもそれって同じことの繰り返しなんじゃないの。これから行くところもいやになったらまた逃げ出して、一生そうやって暮らすの?」
わからない。それはまたそうしたくなったときに考える。答えながら、横を過ぎていく単調な景色に目をやって、ここに置いていきたい思い出にはこの別れた恋人とのあれこれも含まれることを意識していました。彼の横をくすんだ運河が通り過ぎていきました。
私は20年間過ごした町のことを思い出すことなく暮らしはじめました。容れ物の底に溜まった澱をそのままに、上澄みだけを移し替えるようにして、特別好きな服と本当に好きな本だけ運びこんだワンルームの住処でした。極力楽しいこと、好きなことだけするように心がけましたが、もちろん新たに悲しいことも嫌なことも起こりました。若い私に起こるさまざまな出来事は狭い部屋であっと言う間に体積を増し、引越しのとき元恋人が予言したとおり、積もった思い出に息苦しくなってまた放り出したくなるものかと自分でも思っていましたが、そうはなりませんでした。やはり勢いもあったとはいえ自分で選んだ街、選んだ住処というのが大きいみたいです。住む部屋は何度かかわりましたが結婚してからも同じ街に暮らしています。10年そこらで根をおろしたというほどのこともないですが、物心ついたときから気がつけば暮らしていた地元の町ではいつも周りにつきまとっていた浮遊感のようなもの、地に足のついていない感覚を、今の街ではおぼえることがありません。肌に合っているのだと思います。
この10年の間にはさまざまな海辺の街を訪れました。活気に満ちた港があり、または観光地として栄え、または海のある暮らしを静かに楽しむ人々の住まう街です。仕事で訪ねたおりになんとか確保した自由時間にひと目みただけでもすてきな土地ばかりでした。それに旅行をした先では本当にきれいな海にも触れました。沖縄の海の透き通っていることに驚き、ハワイの砂浜の自由なことに驚きました。どこをとっても私の育った街から見えた海とはくらべものにもならない素晴らしい海です。感動度でも、滞在時間でも、もうそれらの海のほうが地元の海を上回っています。だからわたしの海は上書きされていても良いと思うのですが、海という言葉を聞くとき、私の鼻先にはつんとしたにおいが漂うのです。高校の帰りに友人たちと自転車で乗りつけた砂浜の、例のヘドロまじりの潮のにおいです。飛ばした自転車の上で制服のスカートと髪をあんなに強くはためかせても、風の中に溶けそこなったにおい。
それに、真夜中の海に息づいているように思えたもののことも。隣でいっしょに波をのぞきこんでいるはずの男の子がずうんと遠くなって、自分の身体からさえも遠く離されて、自らのたよりない意識とその巨大な生き物と一対一になっているあの感覚は、普段思い出すことはないし、こうして言葉にしてみても感じたことを全く言い表せていない気がします。でもひょんとしたときに顔を出して私の意識を揺さぶります。海。あの海。におい。
地元の町に対しては、訣別したというほど強い思い入れがあるわけでもなく、単に物理的な距離をおいて自然と、住んでいた頃にあったことのほとんどを忘れてしまったというのが本当のところです。町を出た若い私の思惑通りにいった形です。もっとも、そのときの切実に近かったはずの思いも同じく忘れています。ときおり実家の用事で育った町を訪ねても蘇ってくる思い出はそれほどなく、感慨もなく、また憎しみも湧きません。風化しているのです。
が、砂浜をあとにしたときにかかとのところを叩いて念入りにはたき出してきたはずの砂が、次にそのスニーカーを履くときにもそのまた次にも、どこからか湧き出てくるのかと思えるくらいにしぶとく靴下に入り込んでくるように、私のなにかのヒダにもあの海の砂が入り込んでいるのかもしれません。実家で履いていた靴なんてそれこそもう一足も残っていないのに。浅黒く重みのあるその砂は足の指の股にこびりつき、生っぽい潮の臭いを発しては鼻をつんと刺し、海の生き物を気まぐれに呼びさましては私に対峙させます。
ある程度の年齢からずっと、生まれ育った愛おしくない町を、私となるべく無関係にするようにつとめて生きてきました。自分のことを自分で構成してきた、作り直せたというふうな顔をしていたかったのです。そして傲慢にもかなりの部分でその通りに出来たのだとも思います。そういう私をあの町と、さいごのさいごで結びつけるようにして、ちっぽけなくさい砂粒は、私の靴に湧きつづけているようなのです。