5 われらのおそれ
「……現実のあたしらなんて、こんなだかんね」
寂しげなミュウの一言で、なんとなく場の雰囲気が白けた。俺が口を開く前に、当のミュウが、わざとらしい明るい声でその雰囲気を破った。
「あーやめやめ。暗くなった。乾杯しよー乾杯」
キムラさんは、黙ってクーラーボックスから発泡酒を取り出すと、俺たちに配った。
「ダメ人間にかんぱーい」ミュウが陽気に立ち上がる。
「ダメ人間の暗い未来に乾杯」キムラさんも座ったまま右手を上げた。
「………」ケイマは何も言わなかった。
俺も発泡酒を開けた。シュワシュワ音がする穴をじっと眺めた。火の粉が夜空に巻き上がった。
「自由に」
俺は少しだけ芝居がかった口調で手に持つ缶を掲げた。
キムラさんが口元で笑って軽く首を振ると自分も缶を挙げる。
「ジユウに」
ミュウは俺の口調をことさら強調してマネした。「……だって。さっすが、言うことがチガウねえ。きゃあー」
俺は苦笑して頭をかいた。
「自由に……!」
それまで黙っていたケイマが、突然立ち上がって叫んだ。
ミュウもキムラさんも俺も、驚いてケイマを見た。
ケイマは真剣な顔で立ったまま、じっと焚き火を見つめている。
アイラは焚火の側で、眠いのを我慢する子供のような顔で寝そべっていた。
思わず苦笑が漏れた。俺はゆっくり立ち上がり、みんなを見回し、今度はさらに気取った口調で言った。
「愛しき自由の日々と、仲間たちに」
焚き火がパチっと鋭い音を立てた。ミュウも今度はマネしなかった。ただ神妙な顔でうつむき、小さく缶を持ち上げただけだった。
「なんかいいね、それ」と穏やかにキムラさんが言った。「……自由と仲間たちに。ボクたちには、それくらいしかないもんねえ…。それ、誰かの引用?」
「あいにく誰かの引用には興味がなくて」
俺は笑った。キムラさんも笑った。ミュウも笑った。ケイマまで少し笑った。
それからは、普段どおりの夜だった。キムラさんは一人で喋ってる。ミュウはケイマをからかうようにシモネタを話している。酒も飲んでいないケイマは真っ赤になってる。俺はそんなみんなをぼんやりと眺める。
たしかに俺は自由だった。
なんでも選べた。どこにでも行けた。いつも恐怖が側にあった。そして孤独だった。あの日、へんな女神の言ってた通りに。(へんな? ほう)
だけど、そんなことは、俺に限ったことじゃない。
キムラさんの再就職のメドはまったく立っていなかった。ハローワークでは冷たく扱われた。必死で仕事を探しても、『人相の悪い元金融屋の取り立て』にはロクに見つからなかった。わずかな貯金を切り崩してキャンプしていた。気前よくおごってくれたが、本当は一円でも多く貯金は残しておくべきだった。そして何よりも、キムラさんには生きる目的がもうなかった。
ミュウの病気はどんどん酷くなっていった。時折、どうしようもなく情緒不安定になって、感情が暴発し、ヒステリックに物や人に当たり散らした。ときどき、知らない男とピッタリ身体をくっつけ、無表情に歩いているのを遠目に見かけた。仕事も休みがちで、クビを切られる寸前だった。島では明らかに浮いていたし、関東の自分の家にも戻りたくないと泣いた。ミュウにもまた、居場所なんてなかった。
ケイマだってそうだ。いつまでも離島のキャンプ場で暮らすわけにはいかない。16歳。どこかで、必ず社会復帰が必要だった。しかし、強者である父親と、弱者であるケイマの心は、永遠に平行線だった。父親に歩み寄る気なんてなく、息子の心を強引に自分へ手繰り寄せようとするだけだった。心の弱い人間には、それはあまりに残酷だった。
誰にも先のことなんて分からなかった。不安だけだった。恐怖は宿命的な影法師のように、その場の全員にまとわりついて離れない。女神が常にそばに居てくれるだけ、俺のほうがマシなくらいだ。(そうですよ)
もし、俺が、作家の道を選べていたら。
みんなに何かしてあげられたのか、と考える。
仮にミュウの言うように、みんなが幸せになるような物語を書いたとして、それが何になる? それで誰か救われるのか?
文章の世界に閉じこもっている人間に、リアルな人の痛みが分かるのか。仮想現実の安全地帯の中に引きこもり、そこから真実に手が届くのか。小説で、本当の意味で他人を救えるのか。そもそも、モノカキが今こうしてこんなところで、行きずりの連中の話を聞き、酒を酌み交わすだろうか?
炎は無限に形を変える。
俺のココロが火に照らされる。その心の中の深い部分に、細くて白い幻想の橋が浮かび上がる。それはまるで骨のように見える。橋の両側は、切り立った暗い奈落だ。俺は、自分の心の深部に落ちぬよう、ゆっくり、ゆっくり、慎重に、その橋を進みゆく。
その間も、精神の問答は続く。いつのまにか、その相手は、自分自身から、女神に変わっている。眠れない夜、何千回と繰り返してきたように。
「……でもだからといって、作家じゃない今のあなたはどうなんです? キムラさんに新しい勤め先を紹介してやれるわけでもない。ケイマくんのお兄ちゃんがわりとして、ずっと居てやるわけにもいかない。だいたいミュウちゃんが一番カワイソウですよ。あなた、ミュウちゃんの気持ち、気づいているんでしょ? なのに、恋人になって、傷を癒してやるわけでもない。何もしてあげない」
いつものように容赦なく現実を突きつけてきやがる。
「痛そうな顔しちゃダメですよ? あなたがそう望んだから言ってあげてるんですよ」
まあそうだ。うわべだけの言葉。マンガやアニメやゲームの引用。現実の世界の連中だけで、充分だ。
「あなたって、そうねえ……ただ、そこに居るだけの、そこそこ見栄えのする、案山子みたいな存在かもしれませんね」
そうは言っても。
『そうは言っても、俺には身寄りもなければ、頼る相手も居ない。友達らしい友達も居ない。病気や怪我でもしようものなら、それだけで人生詰む、ギリギリの生活なんだ。よく知ってるだろ? 来月どころか明日の生活の保障もないんだぜ?』
そんな暮らしを続け、先の見えない霧の中を、恐怖に追われながら、ひとりぼっちで闇雲に走る日々。そんな俺が、誰かを……。
「あなたがのぞんだんじゃないー」女神は甲高い声で言うと、酷薄な顔で言った。「いまさら弱音なんてウザいですよ」
それが自由ってもんだし。女神は言う。
それが自由ってもんだ。俺もわかっている。
気づいたら俺は、焚き火の前にあぐらをかき、長い時間黙っていた。そのせいか、なんとなく会話も弾まなくなり、ふだんはいくらでも話し続けそうなキムラさんも、毒気を抜かれたように口数を減らした。ミュウもまた、何かを一生懸命考えているようだった。ケイマは相変わらず、痴呆化した天才のような不思議な透明感のある相貌で、ただ火を見つめていた。アイラだけが、主人や仲間がそばに居る安心感に、まどろんでいた。
そのうち、ひとり、またひとりと焚き火の前から立ち上がり、闇の中へ消えていった。
誰もが無言だった。俺たちは、「おやすみ」という言葉を使わない。おそれていたのかもしれなかった。
孤独な人間にとって、夜は安らぎの時間とは限らない。
◆
テントのジッパーを開くジジジという音で目を覚ました。
蒼い闇の中、誰かがテントの中に入ってきた。
女神が悪ふざけで俺を誘惑しにきたのかと思ったが、違っていた。肩までの短い髪。白いTシャツの小柄な姿。アンバランスなほど巨大な胸のふくらみで、誰だかわかった。
俺が目を覚ました気配に、ミュウは一瞬たじろいだ。でも、そのまま一気にジッパーを閉めた。
ミュウは、何も言わずシャツを脱ぎ始めた。シャツのすそが引っかかって引っ張られ、大きな胸が上下に揺れた。さっきのシャツと違っていた。そのせいで、現実味はなく、それは夢の中の出来事のように感じた。
闇の中で、ミュウは何色か判然としないブラを外した。見事な胸があらわになった。見たこともない完璧な胸だった。ミュウはそのまま下も脱いだ。狭いテントの中に、セッケンの香が、むせるように漂った。
ミュウは、上からかぶさるように俺に身を委ねてきた。並外れて胸の大きな女にそんなふうにされるのは、生まれて初めての経験だった。(ちいさくて悪かったですねえ)
俺はミュウのされるがままだった。不思議なほど表情の抜け落ちた、猫のように丸い顔が近づいてきて、キスされるかと思ったが、ミュウは俺の耳を甘噛みしただけだった。でも、その息遣いが耳元に生々しく聞こえ、ミュウの鼓動が、分厚いふくらみ越しに感じられた。抱きつかれる寸前、その大きな胸が水着の形にくっきりと白く分かれているのが見えた。ミュウはあきらかにそれを恥じているのがなぜか分かった。
よく日に焼けた背中は、イルカを連想させる若い滑らかさだった。俺の右手が勝手に動いた。丸く盛り上がった尻の先の谷間に手を滑り込ませると、ぐちょぐちょに濡れた陰毛を指先に感じた。粘膜はびっくりするくらい熱く湿り、そのままなんでも簡単に入ってしまいそうだった。
指がそこに触れた途端、俺を抱きしめるミュウの力が一瞬強まり、針で刺されたように全身が強張った。ミュウは艶っぽいうめき声をあげた。それは普段の声とは別人のように色っぽい女の声だった。寝静まった夜のキャンプ場に響き渡りそうに思えてドキッとした。ミュウは、ほとんどやり返すような大胆さで、俺をぐっと握ってきた。そしてなめらかな手付きで、柔らかく動かし始めた。その手つきは、ふだんの子供っぽさからは、まるで想像もつかない、娼婦を連想させる動きだった。
すべては、決められた手順とルールの通り、実にスムーズに進行していった。
大昔から、代わり映えすることなく脈々と受け継がれ、延々と繰り返されてきた手順。セックスなんて、実は本当に簡単なものなのだ。その手順とルールに従いさえすれば。
従いさえすれば。
俺はミュウのねっとりと濡れた下半身からゆっくり手をもぎ離した。
ミュウは俺にぴったり密着したままずっと俺を上下に動かした。
いっこうにその先に進まないと分かると、ミュウは身を寄せたまま俺のズボンと下着をずりおろした。俺は抵抗した。パンツが怒張したモノの先にひっかかり、激しく痛かった。ミュウは苛立たしげに両手を使ってパンツを引き下ろした。俺は全力の半分くらいの力で抵抗した。それだけのことを、狭いテントの寝袋の上に横たわり、もみくちゃに抱き合ったままやった。
ミュウが俺から身を離して、さっさと先に進もうとする気配を感じた。俺は両腕にぐっと力を入れて、ミュウの自由を奪った。ミュウはもがいた。そして逡巡していた。
ミュウは、しばらくもがき、やがてあきらめたように力を抜くと、全身を弛緩させたまま、俺のモノを握った手を、機械的に動かし始めた。
「また。やらないんですか?」
女神が言った。
俺は返事をしなかった。
「言うまでもないでしょうが」女神はクククと笑った。「あなたずいぶんコッケイですよ?」
言われるまでもない。18歳のときから、俺は何も変わっていない。
あっさり射精した。南国の太陽に焼かれ、畑の土にまみれた俺の性欲が、信じられないくらいの量の精液として、狭いテントの中に飛び散った。俺は絶頂を迎えた女のように、しばらくビクビク痙攣した。
「あっらあ」女神が馬鹿にしたように苦笑しながら言った。「こーんなにいっぱい。溜まってたんですねえ」
ミュウは、身体中精液まみれになりながらも、右手を止めなかった。
俺は、壊れた機械みたいに不気味な動きを繰り返すその小さな手に自分の手を重ね、動きを強引に止めた。
「うううう……」
動きを止められたミュウは、やがて嗚咽し始めた。黒と白とに鋭角的に切り分けられた柔らかな身体をぶるぶる震わせ、なまぐさい闇の中、押し殺した声をたてて。
何か言うべきだ。
分かっていたのに、何も言えなかった。
俺の精液にまみれたミュウが、のろのろと服を身に着け始めた。それはあの快活なミュウではなく、別の誰かの、生ける屍のように思えた。
盛大に射精したあとのやるせない気だるさだけが、南国の離島の夜の底に残った。
服を着たミュウが、俺に背を向け、テントを出ようとした。まだ裸のままの俺は、その褐色の背中を抱きしめ止めた。何か言いかけていた女神は、ため息をついて、言葉を飲み込んだ。
後ろからミュウを抱くと、ずっしりと大きな胸の感触を腕に感じた。ふと、何人の男がこの胸を触ったんだろうと頭をよぎった。そして、何回ミュウはこんなふうに泣いたのだろうと考えた。
俺たちはまた抱き合ってテントの床に横たわった。一度は泣き止んだミュウは、再び静かに嗚咽し始めた。俺は黙ってミュウを抱きしめ続けた。
「で。それで?」
ミュウを挟んで反対側に横になり、立てた腕に頭をのせた女神が挑戦的な笑顔で言った。
わかったことがひとつある、と俺は女神に言った。
動き続け、走り続け、誰かのために働き続ける以外の、恐怖から逃げるもうひとつの方法。
それは、自分よりもずっと怖がりな人々の恐怖を、理解すること。否定せず、受け止めてあげること。弱さを弱さとして、素直に表に出してしまう、自分よりもずっと弱い連中を見守ることだ。誰にだって事情はある。そんな当たり前のことを、ちゃんと分かってやることだった。
俺は真剣な顔でじっとこっちを見る自由の女神に言った。
「わかってるよ」
それは俺にしか見えない。そして俺の声も女神にしか聞こえない。孤独。
「ただ黙って笑っていなさい、だろ?」
そうすれば、ひとは勝手に勘違いしてくれる。そこにあるのが本当の強さや優しさか、それともそう見えるだけの全然別のモノか。それは、この際問題じゃない。俺が、強くて優しい人間なのか、ただそう見られたいだけのエゴイストなのかも知らない。知ったことか。だいたい「仲間」って言葉がそもそもぼくは嫌いなんだ。子供のころからずっと。
それでも、ミュウもケイマもキムラさんも、俺は好きだ。
この奇妙な夜に、共に過ごす無為な時間に、ダメ人間の傷の舐め合いに、意味はある。俺は、俺の選んだマイナーな道で出会う、それほど多くはない人々に、ひとには理解されない意味を見出す。俺に、誰かが特別なものを感じるなら、その幻想を守る。期待された役目を演じきる。言葉をかける。つむぐ。小説を書く。ただ、黙って、笑いながら。
心のどこかで、ほんとうは自分自身を信じたいと願う弱者の、不細工な見本として、愚直に自分を信じる姿を示す。
俺たちは。ぼくらは。これでいい。そうだろう? (ま、いいでしょ)
俺は何度かうなずいて、汗と涙の匂いがするミュウのバサバサの頭をなでた。
ただ黙って、ただ笑って。
泣き続けるミュウを抱きしめた。
「いつか、俺の書いた小説にミュウを出すよ。……もちろんハッピーエンドの物語で」
ミュウはコクンとうなずいた。
世界の鍵を差し入れる鍵穴は、いまだ見つからない。