3 犬の死
犬は俺の腕の中で死んだ。
初夏の夜明け間際だった。
犬の寿命を考えると、20年は無理にしても、15年くらいは一緒に居られるだろうと、ぼんやり考えていた。でもそれはただの楽観だった。9歳の誕生日を迎えた直後、手遅れなほど進行した癌が見つかり、別れは唐突に訪れた。
そのころになると、散歩に出ようとアパートの階段を降りるたびに、何故か足を止めることが多くなっていた。犬の小さな身体の中には、いつのまにか苦痛が巣食っていたのだ。犬は健気にそれを飼い主に隠し、俺は何も気づかないまま日々を過ごしていた。お腹の乳腺に沿ってできた不吉な黒いシミも、加齢によるものだと適当に考えていた。
俺はもっと丁寧に生きるべきだった。物事を繊細に考え、声にならない声を聞き、すみずみまで目を凝らして観察すべきだったのだ。
最後の夜。苦しそうに喘ぐ犬を一晩中見ていた。
一秒でも長く一緒に居たいという気持ち。早く楽になって欲しいという気持ち。矛盾を抱え、俺は床に胡坐をかき、苦しげに横たわる犬の側に居続けた。
ふと、犬が立ち上がろうとした。でも前足は震え、後ろ足は麻痺しているのかうまく立てなかった。何度か体勢を崩し、それでも、動く前足で身を引きずるようにして、胡坐をかいた俺の足の上這い寄ると、どさりと倒れこんだ。
無理に動いたせいだろう。半開きになった口からは、熱く湿った吐息が致命的なペースで漏れていた。犬は、首筋をなでる俺の手を愛おしそうに何度か舐めた。
時間の流れの感覚はもうなかった。真っ黒だったはずの窓の色が次第に薄くなり、夜明けが近いことに今さら気づいた。
呼吸がどんどん速く、荒く、必死になっていた犬が、突然「くうん」と鳴いて体をのけ反らせた。遠吠えをしようとして、途中で魂を抜かれたように。俺の腕の中に倒れこむ。悲痛な声だった。それが死に際だった。俺は犬の命が「ぷつ」と途切れる瞬間を、くうん、という叫びと共に感じた。
しばらく放心したあと、俺は犬の亡骸を抱えてベランダに出た。他に何が出来ただろう?
六月の、梅雨が訪れる前の、静かな夜明け。不思議な形をした雲がたくさん浮いていた。それは夏の訪れを告げる雲だった。美しい朝焼けの日で、アパートの窓から見える海も、目の前の小さな湾に架かった真っ白な橋も、薄くたなびく初夏の雲も、忘れ物のように浮かんだ小舟も、冷たい紫陽花の花も、濡れた砂浜も、犬の死骸も、薄紅色に輝いていた。
真新しい美しい朝に命が失われることは、ひどく間違っているような気もしたし、厳粛でふさわしいような気もした。どっちであれ、悲しいことに違いはない。
犬の死は、家族や、友人や、近しい人間を何人も失くしてきた自分に、悲しさには種類があると教えてくれた。心を隙間なく覆う、分厚い殻すら飛び越えて突き刺さってくる悲しさがあると、思い知った。
総身を圧縮される悲しみに包まれ眺める朝焼けは、それでも、とてもとても美しかった。
悲しくても、辛くても、人は美しさを感じられるのだと俺は学んだ。むしろ、そんな悲しみや辛さが、美しいと感じる心の機能をより鋭敏にし、感覚を押し広げ、感受性を際立たせているように思えてならなかった。
それもまた、世界の謎を知るための鍵だった。
なぜ、俺たちには何かを「美しい」と思う気持ちがあるのか。生きていくのに、その心の作用はどうして必要なのか。
なぜ、苦痛やストレスでもある「悲しみ」を、ひとは克服せず、取り除かず、いつまでも後生大事に抱えているのか。
「喪失感」に意味はあるのか。
その理由の一端が、垣間見えた気がした。
明けの光と夜の名残。それが絶妙に混ざり合う複雑な色彩。桃色の雲の峰の合間から白い鍵はゆっくりと降りて来る。犬の亡骸は夢うつつの最中のようにぼんやりと瞳を開いている。白い鍵は羽毛のような軽やかさでほとんど焦らすような速さで落ちてくる。静かに。心が、その鍵をしっかりと掴んだ感覚があった。鍵は冷たくしっとりと濡れていた。
この鍵に合う鍵穴はどこだ、と考えた。