【ひと夏の妹】#44/46 ひと夏の妹の物語

 ドアを出ると、駐車場の隅に白い軽が止まっていて、中にタバコを吸う母親の姿が見えた。
 俺たちに気づき、車から降りてくる。
 俺の隣ではしゃいでいたリンが、見えない壁にぶつかったように立ち止まり、たじろいだ。
「……お母さん……?」
「リン。このバカ。あんたなにやってんの」母親は、怖い顔をしながらもリンの無事な姿を見てホッとした様子だった。「帰るわよ」
「……なんでお母さんが……?」
 リンが真意を問うように俺を見た。
 俺はリンを見なかった。
「リン」と、母親の口調が硬く冷たいものに変わった。「約束して。ここにはもう来ない、タキくんとはもう会わないって」
「え?」
「タキくんは約束してくれた。リンとはもう会わないって」
「やくそく……?」
「あなたが付きまとうと、タキくんも迷惑なの」
「………めいわく……?」かすれた声で。「……ねえタキくんさっきからお母さんなに言ってるの……?」
 痛いほど俺の手を握り、横顔に強い視線を向ける。
「タキくんはもうあなたとは……」
「おかあさんはだまってて!」鋭くリンが叫んだ。「……ねえ。どういうこと……? めいわくとかやくそくとか……ぜんぜんいみがわかんないよ……ねえ……こっち向いてよ」
 たまらなくなってリンを見た。
 虚ろな。光のない瞳で。ひとり言のようにぼんやりと。かすかな笑みすら浮かべて。
 心臓に爪を立てられたような鋭い痛みが走った。
「リン」意思が揺るいでしまわないように気を張ったら、信じられないくらい冷たい声が出た。「お別れだ」

 ……おわかれ?
 おわかれってなんだ? ……そんなことできるわけがない。
 リンともう会えないなんてありえない。
 これからも、フードコートで、ゲーセンで、本屋で、公園で。
 俺たちは会って。いっしょにバイクに乗って。いろんなことをふたりでやって。
 あの島、今ごろはきっとコスモスが綺麗だ。
 入場料が高くて連れてってやれなかったけど、おれ、またバイト頑張って、稼ぐから。
 冬になったらスケートとかスノボだっていい。
 おれ、じつはウィンタースポーツ苦手でさ。
 ひっくり返るとこ見て、きっとおまえ、笑うよ。
 春になったら桜だって見に行ける。
 花の中で桜がいちばん好きなんだ。
 初夏はホタル。とっておきの場所がある。
 梅雨が明けたらまた新しい夏だ。
 おまえと出会えた夏祭り。
 あのときは最後に花火を見ただけだった。
 今度こそふたりで歩きたい。
 もう一度おまえの浴衣姿が見たい。
 また同じ花火を見上げたい。
 ずっとひとりぼっちだった。ずっとヒマだった。やることなんてなかった。
 いい場所ならいくらでも知ってる。おれの場所はまだまだたくさんある。
 そこは自分だけの場所で。
 ひとりで過ごすのが好きで。
 誰にも心を開けなくて。
 誰と一緒に居ても苦痛なだけで。
 でも、おまえだけは違った。
 いっしょにいると好きな自分でいられた。
 どんなことだっていい。
 いっしょだったらなんでもいい。
 どんなことでも心から笑えるんだ。
 楽しくて。
 愉快で。
 ぜんぶキラキラしてて。
 なにもかもが尊く感じられて。
 おまえがいてさえくれれば、もうさびしくない。
 そうやって、ふたりでいっしょに、たのしく過ごしていけば。
 三年だろうが、五年だろうがあっという間に経つさ。
 そうすれば。
 そしたら。
 そのときふたりは。
 おれたちは。
 ………………。
 なにひとつ口から出せなかった。

 ――自己満足がリンを振り回す。知らないうちに傷つける――

 母親の言葉が、頭の中でずっとリフレインしていた。
 俺が、半端な自分から成長するためには、
 リンと釣り合うだけの自信を手に入れるためには、
 まがい物でも自己満足でもない、『ほんものの矜持』を手に入れるためには、
 いま、ここで、口先だけの言葉を口にするわけにはいかない。
 リンの母親に、これ以上、コドモのところを見せられない。
 だから……

「……もうお前とは会わない」

 口を押さえたリンが弾かれたように車へ駆けた。
 母親は、そんなリンを見て、長い息を吐いた。
「約束守ってくれるのね」正面を見たまま小声で「ありがと」
「礼なんて言われたくありません」
「………………」母親は、句読点のようなため息をついた。「……あなた、きっと優しいひとなんでしょうね」
「俺を優しいって言うなッ!」
 ……それを俺に言っていいのは……リンだけだ。
「あなたもいつか親になった時、いまの私の気持ち、わかってくれるわ」
 そう言い残し、母親は、リンを追いかけるように白い車へ歩く。
 捨て台詞というにはあまりに優しい、不思議な口調だった。
 真新しい光の中で、リンの青いワンピースと白い手足が、薄白いヴェールをかけられたようにきらきら輝いていた。垂れた艶のある黒い髪に隠れて、うつむいた顔はよく見えない。ヒールのある白のサンダル。スラッとして、とても大人びて見える。こんなリンともっと一緒に歩きたかった。誰にも渡したくない。そんな女々しい思いを止められない。
 ロックを解除する音が聞こえ、ハザードが点滅した。
 ドアが開く。
 母親が乗り込む。
 ドアが閉まる。
 エンジンをかける。
 俺が近づくと、リンは逃げるように助手席に乗り込んだ。
 力を入れてドアを閉める音が響いた。
 俺が窓に顔を近づけても、リンはこっちを見もせずに正面をにらんでいる。
 ガラスを軽く叩いた。
 数秒待つ。
 もう一度。
 三度目叩こうとしたとき、ようやくリンが緩慢な動きで腕を動かした。
 窓が少しだけ開く。
 リンはこっちを見ない。
 最後だ。
 もう、最後なんだ。
 何か、何か言え。
 リンが言ってたろ?
 俺は、すぐ恥ずかしいこと口走るって。
 歯が浮くようなセリフが得意だって。
 物語の登場人物みたいなこと言うねって。
 でも、そういうとこ、いいと思うよって。
 だから、何か言うんだ。
 気の利いたセリフ。気取った言い回し。なんでもいい。
 たくさんの本をむさぼり読んだ。
 ずっと言葉を集め続けた。
 いつか、俺の言葉が、誰かのこころの深い場所に届けば。
 いつか、それが種のように宿れば。そう信じて。
 なのに、リンに、いま、ここで、言葉を贈らないでどうする?
 だけど、肝心なとき、肝心な言葉は何も出てこない。
 悲しいくらいに、なにも。
 家を出るときポケットに入れておいた『絵のない絵本』を、窓の隙間から差し込んだ。
 リンはこっちを見ずにそれを受け取った。
「おれ……第十六夜が……好きだ」
 リンは何も答えず窓を閉めた。
 そして、窓越しに聞こえるほど、大声で号泣し始めた。
 ……こんな。こんなくだらないひと言が、俺とリンとの最後の言葉になった。
 リンを乗せた古い軽自動車は、ゆっくりとアパートの駐車場から出て走り去っていく。
 リンの泣き声が遠ざかる。
 やがて見えなくなる。
 俺は唐突に、リンと出会った夏祭りの夜、俺のバイクに座っていたリンの夢幻のような姿を思い出した。片親であると打ち明けたリンのフテくされた顔を思い出した。ナンパされていたリンが俺を見て浮かべた本当に嬉しそうな顔を思い出した。。俺が初めて可愛いと言ったときの真っ赤な顔を思い出した。島の展望台で精一杯の健気さで「妹じゃない」と言ってくれた凛とした美しい顔を思い出した。「タキくんが好き」といってくれた決意に満ちた顔を思い出す。
 そうだ。最後の瞬間、俺だって言うべきだった。チャンスはあった。なのに。
 リン。
 ゴメンな。
 ゴメンな。リン。
 俺も、リンが好きだ。

 部屋に戻ると、リンと一夜を過ごした痕跡が生々しく部屋には残っていた。お菓子の袋。飲み物のボトル。ふたつのグラス。リンが気に入った漫画。リンとやったゲーム。リンに見せた小説。リンと一緒に見たアニメ。リンが作ってくれた朝食の皿。リンが着た俺の部屋着。さっきまでリンが眠っていた俺のベッド。ふたりのこころがひとつになったソファ。
 ジャケットとグローブとヘルメットをつかんで外に出た。
 今、この部屋には、一秒たりとも居たくなかった。
 もう誰の姿もない駐車場。青いバイクに腰掛ける。
 この高台から遠くの街並みを眺めるとき、いつも俺は、世界と自分とが切り離されているような、自由な気持ちになった。
 社会は、大勢の人々は、俺とは違った場所で動いていて、俺とは関係なく回っているように思えて、その孤独が心地よかった。
 バイク。本。音楽。コーヒー。
 それから、矜持とかいう、自分だけの拠り所。
 好きなものだけ身近に置いて、都合のいい距離感で、自分だけの世界に浸っていられれば満足だった。
 でも今は、その孤独が痛い。辛い。寂しい。
 目に映るものすべてが、不思議なほど鮮明に見えた。
 胸が苦しくてたまらないのに、脳は隅から隅までが覚醒し、冴えわたっている気分。
 何もかもが細部に至るまでクリアに網膜に映る。
 世界は、本当に、ほんとうに美しいと思った。
 エンジンをかける。
 重たい排気音が響く。
 ゆっくりとバイクを走らせる。
 今居る場所から、少しでも遠くに行きたかった。
 別の場所に。別の俺に。ここではないどこかへ。
 そこに行けば、もっと寂しくなるのはわかっていたけれども。

 ◆

 ……これで、俺と、たったひと夏だけ『妹』だった女の子との物語は終わりだ。
 たぶん、俺が自分で終わらせた。


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