4 愛しき自由と……

 その日のパイナップル畑でのキツい労働が終わり、俺は南国の海沿いの道を、バイクで走ってキャンプ場に戻った。

 ゆるゆるとした夕暮れ。離島の空はまだ明るい。生ぬるい風には、壁のような密林からもれる緑色の空気が混じっていた。

 亜熱帯植物が生い茂るキャンプ場の入り口にバイクを止め、夕日を少しだけ見つめてから敷地に入った。落日は驚くほど早く、海との距離を縮めている。開けた芝生の斜面には、赤や紺や黄色のテントが点在していて、その隙間を、茶色の小さなケモノが、ものすごい勢いで駆けおりてきた。地表スレスレを飛ぶ茶色の砲弾みたいだ。

 愛犬のアイラ。メスのコーギー。

 アイラは、全身ぶつかるようにして俺の身体に飛び込んできた。「おまえ今の痛かったろ?」というほどの勢いで。俺はちょっと痛かった。アイラは俺の腕に抱かれながら、くうんくうんと全力でまとわりつく。

「ただいま。アイラ。良い子にしてた?」

 わん、と鳴いた。犬は人間の言葉がわかるよな、といつも思う。

 俺は、アイラの小さいけど肉厚の身体を抱え上げ、芝生の上に建つナイロン製の我が家に向け、斜面を登った。

 女神と出会い、作家をあきらめ、自分に出来る、そして他人には出来ない、一風変わった仕事を開業して、数年。

 廃業率9割というその業界で、それでもなんとか生き抜いていた俺は、オリのように溜まる疲れに限界を感じ、長い休暇を取ることにした。それ以上は自分が壊れると思った。そして、南国のその離島に流れ着いた。

 離島は空前の観光客ブームだった。仕事はあふれ、島民は潤い、若い人手が不足していた。俺は、本業を隠して、フリーターと名乗り、離島の密林を案内するカヌーガイドの仕事に就いた。

 その島には、有力者が経営する大きな民宿があって、そこの馬鹿息子が経営するカヌーショップだった。狭い島で力を持つ親元で好き勝手育ったその中年男は、都会の女を求めて一度は島を出た。けれど、誰も特別扱いしてくれない外の世界に、すっかり打ちのめされて島に戻った。そしてそのガキ大将のような性格をますますこじらせた。

 母親は、大金を出してカヌーショップを始めさせた。でも、スタッフは長く続かず、常に人手不足で、それで俺もすぐに採用されたのだ。

 働き始めてしばらく経ったころだ。俺はいきなり軽トラに乗せられ、軍手を渡され、パイナップル畑の労働に駆り出された。母親に雇われた畑作業のバイトが、キツい仕事に耐えかね、集団で脱走したからだ。

 俺は、横柄な息子にも、酷薄な母親にも、文句ひとつ言わず働いた。キツい労働も苦にならなかった。変わった体験がしたくて応募した仕事だったし、本業のシビアさに比べれば、それは子供の遊びも同然だった。(またまた。強がっちゃって)

 島の労働源は、内地から来た楽観的な若者たちで、みんな、労働基準法なんて無視した薄給でコキつかわれ、住み込みで暮らしていた。俺だけが、キャンプ場で暮らしていた。民宿の母親が大の犬嫌いだったからだ。預かってくれる相手もおらず、俺はアイラと、集落から離れたキャンプ場で暮らした。そして、日の出とともに島の反対側までバイクを走らせ、落日を見ながらテントと犬のところに戻った。



 夕暮れのキャンプ場。俺のテントの近くでは、三人の男女がデッキチェアに座り、思い思いの時間を過ごしていた。どこからか三線の曲がかすかに流れていた。月並な響きだったけれど、それはたしかに南国の心に染みた。そのメロディを聞くと、それだけで島に来てよかったと思えた。

「おかえりー」

 真っ先に手を振ってくれたのはミュウだ。ダイビングショップで、住み込みのインストラクターをしている若い女の子だ。
 潮焼けしてパサパサの茶髪に、つり目がちな丸顔。猫のようだった。紺のダブダブTシャツから出た腕も、白いショートパンツから伸びた足も、日焼けして真っ黒だ。顔は猫なのに身体つきは肉感的で、ちょっと目が行くほどのばかでかい胸をしていたが、日焼けのせいか、全身は引き締まって見えた。

「タキくんお疲れさん」と追いかけるようにキムラさんが言った。「今日はいい夕焼けだよお。毎日だけどねえ」

 キムラさんは、老けた40代と若々しい50代のどちらにも見える。メタルの眼鏡に白髪まじりの短髪と、気難しい教師のような顔つきだが、いつもだらしない甚平姿で、ギャップがあった。昼間からビールを飲みつつ、読書したり、アイラと遊んでくれたりしている。

「……お、おかえりなさい」

 最後に言ったのはケイマ。どもりながらそれだけ言うのにも、悲痛な決心めいたものが見える。ケイマはまだ16歳。小太りで、覇気のないのっぺりした顔だが、注意して見ると、目には不思議なほど知的な光があった。そして将棋がおそろしく強かった。

 ケイマもまた、この離島のキャンプ場で暮らしている。南国の離島でキャンプ暮らしする16歳なんて、当然のことながらワケアリだが、無口で大人しい少年だった。

「ただいま」

 俺も言った。それは、普段ではなかなか気づけない、けっこう幸せな言葉かもと思った。

「今日は天ぷらもらってきましたよ」

「お。いいねー」とキムラさんが嬉しそうに言った。「では、拙僧からはビールの進呈をば」

 俺は、テントのジッパーを降ろし、荷物とヘルメットを入れた。そんな俺に、キムラさんがビールを投げてきた。俺は振り返りざまにパシッと受け取り、歩いてみんなのところに戻りながらプシュッと開け、立ったままゴクゴクのどにビールを流し込んだ。

「アイラちゃん、今日も大人しく留守番してたよねー」

 ミュウがアイラを撫でながら言った。アイラは気持ちよさそうに目を細め撫でられている。みんながアイラと仲良くしてくれるおかげで、安心して働けるのがありがたかった。いつのまにか、キャンプ場のマスコットみたいになっていた。

「ミュウ、戻らないの?」

 俺は南国の幻想的なまでに美しい落日を見ながら聞いた。

「うん……こっちで食べてく」

 ミュウはアイラと遊びながらポツリと言った。職場の連中と顔を合わせたくないのだ。その気持ちはよくわかった。

 ◆ 

 ゆるい斜面のキャンプ場からは、極彩色の海と、虹色の夕日が見える。のんびりビール飲むには最高の時間帯。でも、ぼけっと眺めてばかりもいられない。暗くなる前に飯を作る必要があった。その担当は俺とキムラさんで、俺たちは手分けして四人分の食事の用意を始めた。

 俺はコンビーフとキャベツのパスタを作った。ちょっと味が濃いけれど、冷蔵庫がないキャンプ場の暮らしでは、どうしても使える食材が限られる。本当は白ワインでも入れたかったが、そんなものがあれば、自分で飲んでしまって料理にはまわらない。勤め先の厨房から拝借してきたコンソメを少しだけ入れた。

 キムラさんは魚とキノコのホイル焼きを作っていた。昼間釣った魚だろう。キムラさんはこの島で、酒を飲むか、本を読むか、釣りをするかのどれかだった。そのどれも、おそろしく真剣に。

 生活ランクが高いキムラさんは、バターだなんてキャンプ生活では高級な食材をさりげなく入れた。溶けたバターと醤油の匂いが、肉体労働で酷使された俺の食欲を容赦なくあおった。俺はこの匂いがとても好きだ。生きている喜びみたいなものを実感する。

 「イケメソふたりにメシ作ってもらうなんて、女の幸せー」

 ミュウが歌うように言った。キムラさんの広いデッキチェアを占領し、ビールを片手に猫のような伸びをしながら、星が目立ち始めた空を仰ぐ。その姿勢は隙だらけで、シャツは大きくふくらんだ胸元までめくれ、ショートパンツの隙間からは、緑の下着が大胆に見えていた。俺はため息ついて、目をそらした。

「ケイマ君も、タキくんやキムラさんみたいな、美味しい男になりなよ。ここで料理おぼえてさ」

 ミュウはぼんやりしているケイマに水を向けた。

「ち、父は……自分で料理するのは非効率で……時間の無駄だと」

 ケイマはミュウを見ないでボソリと答える。

「……つまんなそうなお父さんね」とミュウは呆れた。
 
 ◆ 

 食事が終り、俺たちは七輪の焚火を囲んで、お土産の魚の天ぷらをつまみつつ、ぼんやり過ごした。日が暮れた後のキャンプ場では、酒を飲むか、会話するかしか、やることもない。

 タキギは昼間にケイマが集めた。俺とキムラさんが料理担当になったように、タキギ集めは暗黙のうちにケイマの仕事になった。それはかなりシンドい作業なのに、ケイマは黙々と、むしろ嬉しそうに大量の木片を集めた。

 焚火をしていると、火のまわりの闇はとろりと濃度を増す。

 海はもう見えない。

 けれど、海鳴りははっきりと聞こえてくる。何もしないと、夜はじつに様々な顔を見せる。 

「タキさんは、タダモノじゃないってボクは踏んでるんだがね」

 キムラさんが、そんなことを言った。焚火の赤い光がメガネに反射している。 燃える火を囲んでの、とりとめもない会話。たいていはキムラさんが喋ってる。今日の話題は『タキの正体は?』だった。自分のことが話題の中心になるのは、ちょっと嬉しいけど、少し困る。

「ただのフリーターですよ」

「ただのフリーターには見えないけどねえ」

 キムラさんはだいぶ酔っている。

「……小説家……かなと……僕は思いました」

 ケイマが俯いたままぼそりと言った。

 その皮肉な発言に俺は思わず苦笑する。ちょっと惜しい。小説家になりたかった男、ではある。女神が傍らでクククと笑った。

「え。そうなの? じゃあこれ取材旅行? いつか私たちのことも小説に出したりすんの?」

 ミュウが甲高い声で話に乗った。真っ暗な中で焚火をしながら聞く女の子の声は、不思議な響き方をする。夜空に反響して澄み渡るような。

「ねえ……じゃあどうせなら、明るい、ハッピーエンドで終わるようなお話に出してよ。タキくんが好き勝手に書き換えちゃっていいからさ」

 オレンジ色の光で染められたミュウは、どこかあきらめたような笑顔で言った。

「……現実のあたしらなんて、こんなだかんね」

◆ 

 ミュウは関東から来た元OLで、その島ではある意味で有名な子だった。妻子持ちの上司と不倫したとか、その男の子供をおろしたとか、男の奥さんと揉めて刃傷沙汰になったとか、そういう不穏で無責任な噂が色々と流れていた。どこまで本当かは知らない。とにかく色々あった挙句、精神を病み、仕事を辞め、療養がてら島に来たらしい。

 そんなとりとめのない噂の中で、とりわけ真実めいて言われていたのが、 
「美優はメンヘラで、優しくしたらすぐヤれる」という話だった。

 別の店でカヌーガイドをしているチャラい男から「アイツすぐやれるよ」と聞かされたとき、その男のロンゲを引っ掴んでぶん殴ってやろうかと思った。でも、そんなことしても何の意味もないし、俺に怒る資格もない。

 だったら俺は、そういうの抜きでミュウに優しくしてやる、ただ、そう思った。

 キムラさんは、自殺事件で有名になったサラ金会社で、債権回収の部署に居たらしい。「鬼の木村って言われたものだよ」と遠い目で話していた。
 大学卒業後、たまたま就職した会社。たまたま回された部署。そこで、会社から、借金の取り立て仕事を押し付けられた。イヤとは言えなかった。元来、真面目な男だったし、家族も養わなければならなかったから。

 以後20年以上務めた。人相はどんどん悪くなった。ストレスから、家族や友人とも上手くいかなくなった。その挙句、業績不振になった会社から簡単にリトスラされた。その直後、奥さんとも離婚した。家や貯金を慰謝料として差し出し、すべてを奪われたあと、実はずっと以前から、共通の友達だった男と肉体関係があったとわかった。

「築くのは何十年。失うのは一瞬」

 キムラさんはサッパリした顔で言った。小説や歌の歌詞でありそうな言葉だ。でもキムラさんのそれには、痛みと、深みと、奥行きがあった。生々しく、たしかなカタチをもった、痛みと深みと奥行きが。

 ケイマは引きこもりだった。深刻なイジメに遭い、登校拒否になった。でも、弁護士だという父親は、自分の才覚と能力で世の中と渡りあってきたタイプで、そんな父親が、ケイマの弱さや心の傷を理解できなかった。

 高校を辞めたケイマに父親は「落伍者め」と怒り、信じられない荒療治を選択した。キャンプ用品と金だけ渡して、たったひとりで離島に行かせたのだ。そして、郵便局の口座に定期的に金を送った。国内なら死ぬことはないだろうし、旅をしながら強さを身につけて欲しい。……そんな親心だった。

 会ったばかりのころ、ケイマは生気のない瞳で日がなぼんやりとしていた。ひどく取っつき悪く、話しかけても完全に無視された。キャンプ場の住人のほとんどから気味悪がられていた。誰も本名を知らなかった。

 そんなケイマが、アイラにだけは少し心を開いた。俺は、アイラをとっかかりにして、何度もめげずに話しかけ、散歩に誘い、釣りに誘い、メシに誘い、バイクに誘った。

 いっさいに興味がなさそうなケイマが、唯一関心を示したのが、キムラさんの持っていた将棋で、ケイマというあだ名は、俺がつけた。それからも俺は、飯を作ってやったり、一緒に海を見たりした。バイクにも乗せた。昔の自分の弱さと孤独を話した。やがて世界の鍵へと変質する弱さと孤独。

 そうして、少しずつケイマは、心を開いてくれるようになった。

 ある時、ケイマから郵便貯金口座の通帳を見せられた。そこには、びっくりするくらいの大金が入っていた。とても、16歳の持つ金額じゃない。

「……そ、そこから、タキさんの好きなだけ使ってください……どうせぼくのお金じゃない……ですし……」

 ケイマは印鑑と一緒にそれを差し出してきた。俺は乱暴に突っ返した。

「友達は金で買うもんじゃねえ」と言った。そして、「これ、絶対に他人に見せるな」と強く言い含めた。

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