【ひと夏の妹】#43/46 最後の朝
朝になるまで俺は一睡もしなかった。
リンも、寝ないように必死で頑張っていたが、気づけばソファで安らいだ寝息をたてていた。
俺はリンをそっと運び、ベッドに横たえた。そして、カーテンの隙間から漏れる青白い月光に照らされた寝顔をひと晩中眺めていた。
いくら見ていても飽きない。
神様に愛されているとしか思えない、美しい寝顔だった。
夜が明けると、俺はリンの頭にそっと手を置いて、耳元でささやいた。
「おきろー」
「んんん」とリンはうなった。「はえ?」
「はえ? じゃねえよ」と俺は笑った。胸の中に暖かい気持ちが満ちていた。
「……寝てた?」
「寝てたよ」
「ちゃんと起こしてよー」目をこすりながら、恥ずかしそうに頬を膨らませる。「もし寝ちゃったら、ぜったい起こしてって言ったでしょ」
「いま起こしたよ」
「……寝てる間に、わたしになにかした?」
「した」と俺は適当に言ってみた。
「やったー。責任とってね」
「おいおい。結婚でもしろってか」
「うん。結婚しよ」とリンは微笑んだ。
「いやいや。展開はやすぎるだろ」赤面しながら言った。
「だっこ」とベッドに腰掛けたリンは両腕を差し出して手足をバタバタした。「だっこして」
「コドモか」
「コドモなんでしょ? 三年後までは」
さんねんご、の部分をイヤミなほどはっきりと。
「はいはい。わかりましたよ、お姫さま」
俺はそう言って、リンの前に屈んだ。頭にポンと手を載せる。
「ほら。来い」
「えへへ」
リンが俺の首に抱き着いてくる。脇の下に両腕をまわした。細くて柔らかな身体。無駄な肉なんてこれっぽっちもついていない。
「よっと」と言って立ちあがった。リンは軽いな、と思う。
くるっと身体を半回転させて、そのまま抱き合う。
名残を惜しむように、俺たちはしばらくそうしていた。
朝食はリンが作ってくれた。
冷蔵庫にあったベーコンやタマゴ、冷凍しておいたキノコや青野菜を、リンは手慣れた様子で調理した。中学生とは思えない見事な手際だった。
お母さんにいつもしてあげるってのは本当らしい。
リンがキッチンで料理する隣に並び、俺は湯を沸かし、食パンを切り、コーヒーを淹れた。
外は綺麗な秋晴れだった。
夏のものとは違う落ち着いた青空に、薄く伸びた雲が浮かんでいた。
俺たちは、カーテンを全開にし、窓際の床に向き合って座り、眩いほどの光の中で一緒に朝食を食べた。
リンは俺と目が合うたびに、幸せそうに微笑んだ。
俺が洗い物をしている間に、リンは着替えた。
「これ、ちゃんと洗って返すからね」
水色のワンピース姿のリンが、綺麗にたたまれた俺の服を抱きしめながら言った。
「いいよ」と俺は優しく首を振った。
「?」という笑顔のリンから服を受け取る。
リンは眺めのいい窓に近づき、外を見ながら大きく伸びをした。
「いい天気だねー」目を細めて顔だけ俺を振り返る。「今日はなにしよっか?」
俺はそんなリンを背中から抱きしめた。
抱きしめられたまま、リンが俺の名を呼んだ。
「……ねえ。タキくん」
「ん?」
「きのう、おまえは年上の男だったら誰にでも惚れてた、みたいなすっごくヒドいこと言ったけど」
「え」ギクリとした。「いや、そういうつもりで言ったんじゃ」
「言った」身体をねじってしっかり俺と向き合って。
「……はい。言いました。スイマセン……」
「違うから」額を俺の肩にゴンゴンぶつけてくる。「タキくんだからだから」
「たきくんだかだかだら」
「あれ? タキくんだかだだからからだ」
「おれだからだかだだかだかだ」
「うー」混乱してる。
「俺だから、なんだろ?」
「うん」のどに詰まるような切なげな声。ふっと息を漏らす。「タキくんだけ」
こんなに綺麗な女の子から、ここまで言われるなんて、俺の人生でこの先あるかどうかわからないな、となんだか逆に怖くなってきた。俺、このあと死ぬのかもしれん。
「約束。忘れないで」リンの声は潤いを帯びている。
「あれ? 約束だったっけ? 賭けじゃなかったか?」
とぼけた口調で言ったが、ふざける場面じゃないんだろうな、とさすがに思い直して黙った。時間はもう残り少ない。
リンが俺から身体を離す。
こっちを見上げる。
真面目な顔。
「わたし、絶対に変わらないから」桜色の唇をきゅっと引き締めて。「三年だろうが五年だろうが十年だろうが。証明してみせる」
その無邪気な決心と自信が俺には眩しい。
正視できないほどに。
「おう。なんなら指切りでもするか?」
だからだろう。どうしても俺のほうは軽い調子になる。
「こっちがいい」
リンが何を言いたいかは、さすがにすぐわかった。
訴えかけるような視線。島の展望台で見たときと同じ、凛とした表情。でも今度はまぶたを閉じなかった。俺のほんのわずかな挙動も見逃すまいとする、決意を秘めた瞳。
すべすべの白い頬と耳元を手の平で包むように触れた。
柔らかな肌。長いまつげ。黒い瞳。なんて綺麗なんだ。ずっと見ていたくなる。
「言い忘れてたけどな」口が勝手に動く。でも、もういい。止めない。「そのワンピース、すごく可愛い」
「やっと褒めてくれたか。タキくんのためにわざわざ着てきたんだからね」
「俺が見た女の中でお前が一番綺麗だ。たぶんこの先も」
リンの反応を待たずに、自分の顔を近づける。
顔を離す。
リンは聞いたこともない甘い声を出した。
女の吐息。
全身が小刻みに震えている。
「……タキくん。言っとくけどわたし初めてだから」
喘ぐようにしてひと息にリンが言った。顔が真っ赤で、唇はわなないてる。
「俺だって初めてさ」
「えええええ。ぜったいっ、うそだっ」
リンが抗議するように甲高い声を上げた。
「こんなに、本気の気持ちでするのは、初めてだ」
「…………………」リンはうつむいて口を押さえた。しゃくり上げる。「………うれしい……」
「なんでそれで泣くんだよ」
「……だって……うれしくて……」
「おまえ、ほんとすぐ泣くよな」
「タキくんが泣かせてんでしょっ!」
怒り顔と、笑い顔と、泣き顔がミックスした表情。とてつもなく可愛い。
「まあ、そういう見方もあるかな」
「罪なオトコだねえ」
目の前の透明なボタンをぴこぴこ押すような仕草をしながら、妙に達観した口調でリンは言った。
俺はその手をつかむ。
リンの動きがハッと止まる。
俺を見る表情が透き通る。
お互いの指が自然に絡み合う。
ぐっと力を入れる。
リンを俺の胸に引き寄せる。
「あ」
リンが身体を預けてくる。
リンの手が俺の腰に。
俺の手がリンの腰に。
頬に口づけした。唇でリンの涙をすすった。
リンが、ふ、と苦しげに短い息を漏らした。
薄く開いた唇に真珠のような歯が見える。
額には小さな汗の珠。
綺麗な細い髪がこめかみにはりついている。
涙の膜に覆われたリンの瞳をしっかり見つめた。
「んとえと」少し戸惑ったように、もじもじとリンがつぶやく。「……もういっかい……ですか……?」
もう、何ひとつ迷わず、俺はうなずいた。
清らかな朝の光の中、俺たちは唇を重ね、抱き合った。
散々リンを泣かせてきた。でも、その中には、嬉しくて流れる涙もあった。それを俺は誇りたかった。絶対に忘れるもんか。
うまくやれたとは思えない。もっと別のやり方もあったはず。我ながら間違いだらけだった。
それでも、この大切な女の子を、俺なりに、本気で、真剣に、大事にしたかったという気持ちに嘘はないのだから。