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【ひと夏の妹】#36/46 「帰らない」

 それからしばらくリンは本を読み続けた。
 まるで、俺と話をするのを避けるみたいに。
 そんなリンを見ていたら、いきなり俺の腹が派手に鳴って静かな部屋に響いた。本に集中してたせいで夕飯はまだ食ってなかったのだ。
 それを笑おうとした瞬間、自分の腹もまた同じように鳴って、リンは赤くなった。
「カップラーメンでも食うか?」
「うんっ。食べるっ」
 俺は立ちあがり、棚からカップラーメンをふたつ出した。
「シーフードとノーマル」
「普通のがいい」
「記念日だってのに、なんか悪いな、こんなモンで」
「いいよ。カップラーメンすき」

 さすがにカップラーメンだけってのも寂しかったので、湯が沸くまでに簡単に一品作った。と言っても、砂肝とピーマンを塩コショウで炒めただけだ。居酒屋でバイトしていたときに覚えた。
 台所に立つ俺を、リンは、後ろでチョロチョロしながら物珍しそうに見ていた。
「へえー。料理とかするんだっ?」
「炒めモノは料理に入らねーよ」
「ねえねえっ。エプロンとか付けないの?」
「付けるかンなもん」
「えー。エプロン姿、見てみたかったー」
「普段から付けねーよ。めんどくさい」
「でも、結構似合ってるよ。料理」
「そうか?」
「うん。わたしがエプロン作ってあげよっか?」
「おまえ、どうしても俺にエプロン着せたいらしいな……」
「で、わたしと一緒に料理しようよ」
「おまえ料理なんてできんの?」
「こう見えても、けっこう得意なんだよ。お母さん、帰りが遅いことが多いから」
「そっか。そりゃお母さんもありがたいだろうな」
 BGMがわりに、普段はまったく見ないテレビ番組を適当につける。
 俺はキッチンチェアに腰掛け、リンはソファでぼんやりとテレビを見ながら、カップラーメンを一緒に食べた。
 リンが、番組の内容なんてこれっぽっちも見ていないのは、俺にも伝わってきた。

 湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
 手動のミルで豆を挽き、ドリッパーにフィルターをセットし、小さめのケトルでちょっとずつお湯を出してコーヒーを落とす俺を、リンは真剣な表情で見つめていた。
「すごい。喫茶店開けるよ」
 普段から特に意識せず日常的にやっていることなのに、リンからそう言われるとなんとなく気分がいい。
「わたしも飲みたい」とリンが言い出した。
 いつもはコーヒーなんて飲みたがらないくせに、ハンドドリップを見ていたら無性に飲みたくなったらしい。
 急きょもう一杯作った。リンの分にはたっぷりミルクと砂糖を入れてやった。
 俺はベッドに腰掛けて、左手でソーサーを持ち、右手でカップを持って薄めに作ったブラックコーヒーをすすった。
 リンは、カップを両手で包むように持って、ぼんやり黙ってテレビ画面に顔を向けていた。
「なあ、リン。せっかくの日だけど、これ飲み終わったら、今日のところは帰れ。送っていくから」
 俺はリンの横顔に言った。
 帰宅時間に厳しいというリンの母親のことがずっと気になっている。俺たちが遅い時間一緒に居るのは、夏祭りのとき以来だ。
 リンは、無言でテーブルにカップを置いた。
 立ち上がり、下を向いたまま、黙って俺の隣に来る。
 おもむろにベッドに腰掛けた。
 思わず身を引いて身体を離した。そのままじっとしてたら、たぶん密着していた。
 リンが横に移動してぺったり身体を寄せてくる。
 俺はカップに残ったコーヒーをこぼさないように注意しながら、さらに身体を離す。
 枕元にまで追いつめられた。
 リンは、膝の上に両手を揃えて置いたまま、自分のつま先あたりを見つめている。
 つばをごくりと飲み込むのがわかった。そして、絞り出すように言った。
「…………ねえ。エッチしてもいいよ……」
 心臓が跳ねた。
 のどの下のあたりが大きくうねった。
 脳が絞られたようにじんわり痺れた。
 全身の血の流れが変わった感覚があった。
 手の平に汗がにじんだ。
「おまえ」リンをにらむ。めちゃくちゃ頭にきた。「……ふざけんなっ! そういうことを簡単に言ってんじゃねえ……!」
 目の前に居るのが、俺の知ってるリンとは全然別の誰かになってしまった気がして、ショックを受けた。
 リンがこんなことを言うなんて。
 リンだけは。リンだけは、そんなこと言わないと思ってた。
 でも。
「かんたんに『簡単』とか決めつけるな!」
 リンもまた、激しく俺をにらみ返して言った。
「そうでもしないと、女として見てくれないじゃない!」
 わなわな震えながら吐き出す真剣な言葉。
 美しい瞳には、あふれ出す直前の涙。
 ああ、リンだ。と思った。
 それは、たぶん、リンなりに選んだ必死の言葉だったに違いない。
「泊まってく」とリンはうつむいたまま言った。「帰らない」
 痺れた頭で、俺はそんなリンの、小声だけど気持ちの強くこもった言葉を聞いた。
 俺とリンとの時間の中で、いまはっきりと、何かが大きく動き出している。それは、なんとなく、とか、適当にごまかして、とかで済むようなものじゃない。むしろ、俺のそういうどっちつかずの態度が、こんなマネをさせるまでリンを追いつめたのだと思い知った。
 俺の家を見つけようと、ずっと青いバイクを探し続けたリン。
 最初は単純に、「いじらしくて可愛い」とか「正直嬉しい」という気持ちが先に来た。でも、冷静に考えれば、それはやはり、とんでもないことなのだ。
「泊まるって、お前、ちょっと落ち着け。……そんなことできるわけないだろっ」
「タキくんが泊めてくれないなら」とリンは同じ姿勢のまま、断固とした口調で「駅前に行って最初に声かけてきたオトコのところに泊まる」
 俺は絶句しながらも、「ふざけんなっ」と叫んだ。「そんなことしたら」
「むりやりへんなことされるかもね」挑みかかるような笑顔でリンが俺を見る。「タキくん以外のオトコにそんなことされたら、わたし、自殺するかもね」
 サーッと血の気が引いた。
 すくっと立ち上がり、リンは玄関のほうに向かった。
「待てっ」その腕をつかんで止める。
「そのくらいしないと、また『簡単』とか言い出すんでしょ」玄関を向いたままリンが言った。
「……わかった」と俺は吐き出した。今のリンは普通じゃない。何をするかわからない。「……わかったから。ここに居てくれ」
「え?」
「おまえをそのへんの男のとこになんてやれるかっ」
「………………」
「今夜は泊まっていけ」
「……う、うん……」
 上品なワンピースの袖から出た腕も、綺麗な首筋も、整った顔も、形のいい耳も、ぜんぶ真っ赤にしてリンがうなずく。
「……おフロ……入らせて」
 今、リンの胸に手を当てたら、弾けそうなほど心臓が鳴ってるに違いない。
 自分が今からやろうとしている行為が、正しいことなのか、間違っているのか、それとも頭のおかしなことなのかも判断はつかない。
 でも、ひとつだけはっきりしているのは、どんな結果になったとしても、それはすべて自分自身が責任を取らなくちゃいけないということだ。

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