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【ひと夏の妹】#42/46 夢一夜

 アパートのドアの前に立つ。
 表札には俺の名前。
 今日、リンは、どういう気持ちでこれを見て、どんな心境でチャイムを押したんだろう。今さらながらその健気さに胸がときめいた。
 ドアを開く。自分の部屋なのになぜか妙に緊張する。
 心配そうな顔のリンが俺を出迎えた。
「…………お母さんは?」
「帰ったよ」
「え」
「泊まっていいってさ」靴を脱ぎながら言って、部屋に上がった。「今夜は特別だ」
「うそ。お母さんがそう言ったの?」
「ちゃんと話したら、わかってくれたよ。いいお母さんじゃないか」
 リンは何が起こったのかまだ理解できない、というきょとんとした顔。
「今夜は泊まっていけって言ったろ? 俺に二言はない」わざとらしく気取って。
 リンの顔にじわっとした笑みを浮かぶ。
 うん! と元気に言って、俺に飛びついてきた。
「タキ君をひとめ見たら、お母さんもぜったい気に入ると思ったんだ」
 俺の腕にぶら下がるように抱きつきながら、無邪気にリンは言った。
「………………」
 俺は何も言わず、リンの頭をぽんぽんと撫でた。

 ◆

「着替え、ここ置いとくぞ」
 浴室を見ないように下を向いていたら、バスケットの中に、リンが脱いだ水色のワンピースと、隠すように包まれた水色の下着がちらっと見えた。
 思わず目を上げると、すりガラスの向こうにリンの裸のシルエットが浮かんでいて、俺は頭が爆発するんじゃないかと思うくらいドキドキしながら目をつぶった。
 慌てて浴室を出る。
 がつん。洗面台に思いきり足をぶつけた。
「イテッ」
「え。なに?」がちゃっと音がして、濡れ髪のリンが、湯気をバッグに顔だけ戸の隙間から出した。「大丈夫?」
 目を開けると、オレンジ色のすりガラス越しに、リンの白い身体がばっちり見えた。
 本人はちゃんと隠れていると思っているのだろうが、ガラスに身体を押し付けているもんだから、小さなピンクの突起までほとんど透けてしまっている。
「あ。はい。大丈夫。ごゆっくり」
 気持ちを鎮めるため、ひたすら意味もなく部屋中を掃除した。
 窓ガラスのサッシを雑巾がけしていたら、頭にタオルを巻いたリンが、上気した顔で風呂場から出てきた。
 パジャマがわりに俺の部屋着を着ているけどぶかぶかで、シャツの袖をまくり、ズボンの裾を折り曲げているのがとんでもなく可愛いかった。
「服ありがと」とリンはもじもじしながら言った。「これ、タキくんの匂いがする」
「しつれいな」俺は動揺を隠すためことさら陽気な口調で「洗濯したやつだぞそれ」
「うん。そうなんだけど。でも、ちゃんとタキくんの匂いもする」
「男くさくて悪かったな」
「くさくないよ」とリンは言って、大の字みたいなポーズをとった。「やっぱり男のひとって身体おおきいねー」
「言わんでいいわ。そんなこと」
 そういうポーズをされると、控えめな大きさとはいえ、胸の膨らみが目立ってしまう。
「あ。そうだ。ドライヤー」と俺は言って、リンと入れ違いに浴室へ入った。「……普段使わねーからな。どっかあったと思うけど……」
 蒸気のこもった浴室は、いつものお湯、いつもの洗剤類のはずなのに、異質な、ものすごくいい匂いが漂っている気がした。
 洗面台の下の棚の奥から引っ張り出したドライヤーをリンに渡す。
 濡れてぺったりした髪や、ピンク色になった肌が色っぽい。
 リンは、じっと俺の目をのぞき込むようにして喋った。
 母親が連れ戻しにくるという緊張から解放された反動か、危なっかしいほど無防備で、男とふたりきりで居ることに対して、本来あるべき最低限の緊張感すら失われているように思えた。本当に、父親や兄と居るみたいだ。
「ごめん。髪かわかすの、けっこう時間かかっちゃう」
「そんなことでいちいち謝らなくていいって」
「タキくんもゆっくり入っていいからね」
 本当は風呂には入らないつもりだった。今ここで服を脱ぎ、裸になることに、なんだかものすごく抵抗がある。でも、リンがさっぱり綺麗になると、途端に自分の男の匂いが気になってしまった。
 湯船に浸かる。
 扉の向こうからかすかにドライヤーのうなりが聞こえる。
 さっきまでここに裸のリンが。
 思考を止めるようにざぶりとお湯に潜った。

 ◆

 それから俺たちは、色々なことをして最後の夜を過ごした。
 一緒にゲームをした。音楽を聴いた。好きな漫画や小説について語り合った。
 俺はリンに自分の大切な本のことを話し、リンから一番大事な本の話を聞いた。
 リンのお母さんが昔は文学少女だったという話を聞いた。面白くて優しかったというおばあちゃんの話を聞いた。
 俺が作家になりたいと打ち明けると、リンは「ぜったいなれるよ」と言ってくれた。
 俺が一番好きなアニメを一緒に見た。空に浮かぶ城を冒険する勇敢な少年と気高い少女の物語。リンも見たことがあるアニメだったが、初めて見るように画面に見入っていた。俺も同じだ。
 エンディングのあと、リンは俺の肩にもたれかかり、ふたりはこのあとどうなったと思う? と静かにつぶやいて俺の腕のヘマタイトを撫でた。俺もリンのラブラドライトに触れながら、リンは? と聞き返した。ふたりは死ぬまで一緒に居て、ずっと幸せに暮らしました、とリンは言った。そうであって欲しいと俺も思った。

 夜更けに、俺たちは近くのコンビニまで歩いて出かけた。近くと言っても、俺のアパートから、坂を下って十分くらいかかる。
 リンは、このままでいい、と言って着替えなかった。俺は大きめのジャケットをリンに着せた。それをシャツの上から羽織ると、リンのお尻まですっぽり隠れた。
 外に出ると、夜の空気は清浄で冷やりとしていた。月は小さくなっていた。俺の青いバイクが、闇の中、駐輪場の照明に鈍く光っていた。思えば、コイツが俺とリンを引き合わせてくれたんだな、と思った。リンも黙ってバイクを見つめていた。
 暗い海に浮かぶ島のような高台。
 彼方には夜の街が形作る光の帯。
 なだらかに下る暗い坂道を、手を繋いで、ゆっくり歩いた。
 コンビニで俺たちは、一番高いケーキと、お菓子や飲み物、目についた品物を片っ端から買った。そして、袋を提げ、元来た道を手を繋いで戻った。
 リンは異常なほどハシャぎながら、夢みたいに楽しい、と言った。
 夜の底にふたりきり。
 このまま時間が止まれば、と本気で願った。

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