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【ひと夏の妹】#37/46 嘘と電話

 風呂場に行こうとしたリンに俺は言った。
「けど、ひとつ条件がある。お母さんに電話しろ」
 リンが露骨に顔をしかめた。
「友達の家に泊まるとか言って、安心させろ。じゃないと、家出か誘拐と思われて本当に警察に通報される。お前、俺が逮捕されたら嫌だろ?」
 その聞き方が妙なツボに入ったのか、リンはくすっと笑った。
「タキくんが逮捕。なんか面白い」泣き出す寸前のような顔で笑うという奇妙な表情だった。「でも、わたしのせいってのはイヤだなー」
「だったら、頼むよ。うまくごまかしてくれ」
 電話を拾い上げ、ベッドの上にチョコンと座るリンに渡した。
 リンは、電話を持ったまま少し考えている。
 それから、立ち上がって部屋の中をうろうろしだした。
 やがて、決心したように、ナンバーをプッシュし始める。
 テレビの電源を切った。
 急に静まり返って、電話のコール音がやけにハッキリ聞こえてくる。
「……あ。……お母さん?」
 乾ききった暗い声。俺と話している時とは全然違う。
「……ごめん……うん。大丈夫。ごめん……だから、ごめんって。……それで」
 俺は、うつむいてぼそぼそと話すリンの背中にそっと近づくと、後ろから電話を強引に取り上げた。
「あっ」
「突然すいません」俺は早口に母親に名乗った。「リンさんはいま僕の家に居て」
 受話器の向こうでリンに似た声の女が驚いている。
「かえしてよっ!」
 リンが俺につかみかかり、電話を奪い返そうとする。
「かえせー!」
 俺は、左腕で暴れるリンを押さえた。
 俺たちの騒ぎが電話越しに伝わり、母親もすっかりパニックになって喚いている。
 逃げ込むようにトイレに入り、鍵をかけた。
 リンがドアをドンドンと叩く。
「あなたなんなの!? いま警察に頼んで、この電話、逆探知してもらってるから!」
 リンの母親がヒステリックに叫んだ。稚拙な嘘だ。でもそれがかえって、不安や必死さを表しているようで、俺は母親に同情した。
 俺は、自分がリンを傷つけるつもりはないことを誠心誠意で訴えた。夏祭りで知り合い、近所のモールでいつも遊んでいたことを、バイクに乗せたことを、今夜リンがバイクで俺を探しだして突然家に来たことを、必死に説明した。
 話しているうちに多少落ち着いた母親は、「とにかくすぐに行きます」と言った。
 俺は家のだいたいの住所と目印を伝えた。
 そして、電話を切り、体中の空気を全部入れ替えるような深呼吸をした。

 いつのまにかトイレのドアを叩く激しい物音は静かになっていた。
 慎重にドアを開くと、リンはソファに座り、物凄い形相で俺をにらんでいた。
 俺は電話をテーブルに放り、ため息をついて、リンの目の前の床に座った。
「…………うそつき…………」地底の奥から響いてくるような声でリンが言った。「うそつきっ!」
「お互い様だ」と俺は苦笑した。母親と連絡を取ったことで、俺のほうには余裕が戻っていた。「お母さん、心配させやがって。俺、『心配する母親の気持ち』とかに弱いんだ。似たような家庭環境だから、わかるだろ?」
 少しだけ、リンの険しい顔がひるんだように見えた。
「どうして…………?」リンの声が震えていく。「……わたしはタキくんが好きなのに…………それだけなのに……なんでわかってくれないの……?」
 上下に小刻みに震えるようにして、リンが嗚咽し始めた。
「……わたしは……タキくんが……好き……だいすき」
 それは、十四歳の女の子からの、真剣で、必死な告白だった。
「違うね」と俺の口から勝手に声が出た。冷たい声だ。「それは本当の好きじゃない」
 口を押えたままうつむき、服の上にポタポタと涙を落としていたリンが、ゆっくり顔を上げる。
 目を見開いて、信じられないものでも見るような顔。
「おまえは、単に俺が、大学生で、色々おごってくれて、パッと見大人びてて、バイクにも乗ってる都合のいい相手だから、そう勘違いしてるだけだ。お前くらいの年にはよくあるんだよ。身近な大人のオトコに、思い込みの恋愛感情持つなんてのは」
「ちがうッッ!!」
 リンが鋭く叫んで、目の前のテーブルを薙ぎ払った。
 リモコンが、グラスが、雑誌が、電話が、コーヒーカップが跳ね飛ばされ、床の上に飛び散って、派手な音を立てた。
 ガラスの割れる音。リモコンの電池カバーが外れる。電話が壁に当たる。床にぶちまけられた本が、ページを潰したまま転がる。
 自分の立てた激しい物音で、リン自身がビクッと身体をすくめた。
「………………………………」
 リンはフーフーと必死で威嚇する子猫のように荒い息をついている。美しく整った顔は真っ赤になって見る影もない。
「これが……この気持ちが……かんちがい? 思い込み? タキくん……いままでわたしのなに……見てたの……?」
 リンは流れる涙と鼻水を拭こうともしない。
「……さいしょは……そうだったよ。バイクに乗りたいっていうのが本音だった。まわりの男よりずっと落ち着いてたし、カッコいいと思ったし、ほかの男みたいにすぐへんなことしようとしてこない安心なひとに見えたし。でも、いっしょの時間を過ごすうちに、いろいろな面が見えてきて、それだけじゃないってわかって、どんどん好きになって」
 息継ぎもなしにリンはまくしたてる。
 リンがそんなに長く、一方的に喋るのを俺は初めて聞いた。
「ずっといっしょにいて……いろいろなことふたりでして……わたしのはなしをたくさん聞いてくれて…………リンはリンのままで居ろなんて言ってくれて! ……なのに妹でした、なんて言われたわたしのきもち、わかる!?」
 言葉で殴られたような気持ちだった。
 自分が誰かにそこまで好かれるとは思わなかったし、シノのことだってある。中学生の本気を、真に受けられるはずもない。
 でも。リンを深く傷つけたことだけは疑いようもない事実だ。
 俺は立ち上がった。
 ソファで細い身体を震わせるリンの左隣にそっと座った。
 肩と肩が触れる。リンは全身から熱を発している。
「手、見せてみろ。怪我とかしてないか?」
 リンは俺に手を差し出すと、ぶるぶると大きく震えて、大粒の涙を落とした。
 リンの手を取る。
 ぐっと力を入れて腕を引っ張り、サラっとした生地の青いワンピースごと、リンの細い身体を抱きしめた。
 リンの顔は俺の右胸のあたりに。涙と吐息で胸が熱い。
 リンは俺の腕の中で幼い子供のように泣いた。熱い体温を感じながら、涙の匂いをかぎながら、俺はそのままリンを強くつよく抱きしめて、壊してしまいたくなるような激情にかられた。
 腕の力が強まる。
 柔らかな膨らみを密着した身体に感じる。
 リンの涙と湿った吐息を服が吸い取っていく。
「ごめんな。俺は本当にバカだ」
 俺は本当に大バカだ。
 その言葉を聞いたリンは、さらに激しく泣き始めた。

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