1 自由と女神
若いころ、小説家を目指していた時期はわりと短かった。2・3年といったところだろう。
ある日女神が現れてこう言ったからだ。
「小説家になるのと、小説のように生きるの、どっちがいいですかあ?」
それは、俺が初めて世界の鍵を見つけてしばらく経ったころで、けれど、その鍵の使いみちはまるで見つかっていなかった。
「それって選べるの?」
「フツウはどっちか選んだりは出来ないんですが、あなたラッキーなひとみたいですねえ」
俺は考えた。
前者のほうが魅力的に見える。幸せなのは後者のほうに思える。
でも、選ぶ必要はなかった。
「あらあらあらあらー」女神は手に持つ美しい帳簿に目を落としながら、素っ頓狂な声を上げた。「ごっめんなさーい。手違いでした。選べませんね。なんか、もう決まってるみたいです。二番です。選択肢Bです。後者のほうです」
「つまり作家にはなれないと?」
「ええ。まあ」と言って女神は「フツウはこんなこと、滅多にないんですが、あなたアンラッキーな人みたいですねえ」クククと笑う。
はあ、そうですか。
「でも、私から見ても、あなたは作家向きじゃないと思いますよ」
「そりゃまたどうして?」
「作家に必要なものが欠けています」
「言うね」
「でも、そのかわり、あなたが一生懸命手に入れようとしてきたものや、大事にしてきたものは、これからの生き方できっと役に立ちますよ」
「どれのこと?」世界の鍵のことだろうか?
「鍵とか、そーいう痛いヤツではなく」と女神。「強さと優しさです」
「……俺は、強くもないし、優しいって言われるのは大キライなんだけど」
「じゃあ、何も言わず黙っていなさい。ただ笑ってればいいです」と女神は女神らしい有無を言わさない威厳で言った。「そうすれば、他人は勝手に勘違いしてくれます。それはすなわち、強くて優しいひとと同義です」
こんな風にして生き方を決められた。
俺は作家をあきらめ、女神はその日からパートナーになった。
「申し遅れましたが、私は『自由の女神』。アメリカにあるアレとは別ですよ」
またクククと笑う。こいつちょっと神格に欠けやしないかと不安になったが、仕方ない。アンラッキーな男なのだ、俺は。
「『チャンスの女神』や『創作の女神』『金運の女神』『健康の女神』……人気の女神はたくさん居るんですが、私はイマイチ不人気なんですよね」
恐ろしいことを言い出す。ハズレかよ?
「私の場合、『代償』の支払いが、ちょっとね」
女神は指先で小さな隙間を作り、片目をつぶって小首をかしげ、どちらかと言えば地獄あたりに居る存在みたいなことを言い出した。
『代償』を求めるのって、たしかいわゆるアレ系の連中じゃなかったか。
「あなたは今後、恐怖からずっと逃げ続けなくてはなりません。それは私とセットなんです」
申し訳なさそうに言う。
「なんとかならないの?」
「ダメなんですよ」
だから不人気なんですかねえ、と苦笑するが知るか。
女神は手を差し出した。そして言った。
「パートナーとして、あなたにふたつ特典を授けます。(よかったですね!)ひとつは、ほんの一瞬だけ自分以上の何かになれる能力。条件は、恐怖を涼しい顔で受け止めて、なんとか凌ぐこと」
出たよ。また恐怖。
「短時間だけ、あなたは分不相応の存在になれます。でも、ほんの短時間ですから、過信は禁物ですよ」
微妙な能力だ。そのたびに怖い目にあって、それをなんとか誤魔化さなくちゃいけないって? そんなの出来れば使わないでおきたい。
「ふたつ目は?」
「女の子に少しだけモテるようにしてあげます」
え。マジ? それはちょっと嬉しいかも。
「でも、あなたの魅力を増すとかじゃないんですよ。厳密に言うと、あなたのこと気に入りそうな物好きなタイプと、出会いやすくしてあげるって感じです。上手くいくかは、その後のあなたの行動と頑張り次第」
ギャルゲーかよ。
「では、今後ともよろしく。もう本を読んだり、小説モドキを書いたりなんてする必要ありませんよ。ていうか、そんな余裕はありません」
「何させる気だ?」
「飛んだり跳ねたり走ったり」
クククと笑う。
やっぱりアレだ。悪魔だ。
「止まらずに、動き続け、走り続け、誰かのために働き続けなさい。それが、恐怖から逃げるたったひとつの方法です」
「止まらずに、動き続け、走り続け、誰かのために働くよ」と俺は観念した。別にそういう生き方も悪くはないように思えてきた。
「あ!」と自由の女神は小さく叫んで手をパチンと合わせた。「大事なこと、言い忘れてましたー!」
「……………」
「本当ですよ。わざとじゃありません。いわゆるヒューマンエラー?」
「それギャグ?」
「もう一個ありました」
「何が?」
「支払うべき代償です」
「そういうの詐欺って言わない?」
「あなた、孤独に生きることになります。それも私とセットでした」
だから不人気なんでしょうねーと笑う。もちろんクククと。
「やれやれ」
俺はため息をついた。恐怖に比べれば全然マシだ。
とりあえず歩き出した。
動き続けるための最初の一歩。
そのうち走り出して、誰かのために働くことになるのだろう。
ひとりぼっちで。恐怖から逃げ続けながら。
「……どうも俺は幸せにはなれそうにないな」
「あら」と俺の隣にピッタリ寄り添って歩きながら、女神は心外そうな顔をしてクスっと笑った。
「自由ですよ? 幸せに決まってるじゃないですか」