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今宵一夜を語ろうか-芝居の変化と脚本-

皆様こんにちは、あまつです。先日、無事に雪組公演の千秋楽の幕が下りてから早数日、いかがお過ごしでしょうか。
今回はベルばら24年雪組の今宵一夜の場面を語っていきましょうの回です。
東京公演からアンドレ(縣千)の台詞が追加され、それに伴い芝居が変化してきたように感じます。ここに着目し、それぞれの好きなポイント縣くんの東西の芝居の変化とその芝居を受ける朝美さんという流れで書いていきます。そして、最後に脚本についても触れていきます。


好きなポイント

朝美絢のオスカル


一言でいうと、純真無垢の極み。
衛兵隊転属の場面、「諸君」と言い聞かせる芝居には説得力があります。その軍人姿が凛々しいからこそ、今宵一夜のアンドレへ見せる弱さのギャップが大きくなります。このギャップに驚く方は多いと思われますが、そこをどのように埋めているのか。
それは「地味な芝居を重ねること」だと思います。地味というのは見た目の話ではありません。このベルサイユのばらという古典的な大仰な台詞回しの中に、どこまで繊細な心の動きを忍び込ませられるか。
朝美さんの芝居は、良い意味で宝塚らしくないと感じています。今宵一夜においても、リラックスした息遣いがアンドレとの積み重ねた関係を納得させるひとつとなっています。
急展開にもかかわらず、ニュートラルな芝居と伝統的を織り交ぜた表現が観客に自然な感情の変化をもたらしているのではないでしょうか。

細かな仕草でいえば、朝美さんは目の芝居が特にいいです。恋心の自覚から受け入れ、腕に抱かれるまで、心がほどけていくさまが全て目でわかる。さらに言えば、アンドレの力強さに動揺するまでも。
縣アンドレの熱量に目が向いてしまいがちですが、唯一の心の拠り所に いだかれ蕩けた瞳は「愛している」の言葉がなくとも現れるアンドレへの愛です。
恍惚と赤みがさした頬と安心した表情、瞳の揺らぎ、唇から漏れる吐息、全ての仕草が愛おしい。
恋する胸の高鳴り、愛のやすらぎを同時に浴びる初々しい乙女の反応はため息が出るほど絶品です。

縣千のアンドレ


今宵一夜以外の場面からアンドレの役作りについて受けた印象については、上記のnoteにて。
急展開に説得力を持たせるため、そのベースをどのように積み上げているのかというお話をしています。今宵一夜に繋がる内容なので是非。宣伝!

今宵一夜の縣くんの芝居で何が一番好きかというと、やはり手の使い方ですね。骨ばった関節は男役らしい力強さを持ちながら、しなやかに伸びた指先が織りなす繊細な芝居が大好きです。
がっしりと肩を抱き離さないと独占欲を感じる手と、柔らかくオスカルの髪の毛を撫でる優しい手。本能と理性が葛藤するような、アンドレの等身大の男らしさを手の抱き方から感じられます。
特に大劇場では荒々しさが目立ち余裕のない男が強く押し出されています。しかし男らしくも男役の枠は越えない、このバランスが絶妙です。
身体の線をなぞる手つきはなまめかしく、男が生唾を飲み女が吐息を漏らす。婀娜な絡みを重ねているにも関わらず、生々しさは感じない、どこまでも美しい場面。そこには華麗な様式美と、縣アンドレの指先まで丁寧な芝居が込められているからだと思います。

芝居の変化と掛け合わせ


ここからは、芝居の変化と掛け合わせによる深みについて語ります。
先ず、大きな変化といえばアンドレの「俺は、今日まで生きていてよかった」という台詞の追加。それに伴い、感情の緩急も変わった印象です。

大劇場では、自分の胸に収まる愛しい人に驚喜し、身体を形をひとつひとつ確かめるようにオスカルの手に縋り、性急に求める激しさが際立ちます。
東京では、上記の追加された台詞に熱がこもり、その分余裕が生まれたのではないでしょうか。慈しむようにブロンドの髪を剝き、華奢でなよやかな身体を厚い胸で包み込む。実際には体格差は同じ女性である以上、そこまで大きくはありません。しかも学年でいえば下級生。そんなことを忘れさせ男女の性差、艶やかな一夜の描写ができるのは、縣アンドレが日々その場で生まれる感情をそのまま出せることが大きいでしょう。この部分を受ける朝美オスカルについては後述します。

縣アンドレの変化についてお話しましたが、この変化は個人的に大変よかったです。毎公演のニュアンスの違いを味わうことも、ひとつの楽しみになりました。それもアンドレという役を原作を軸とし、宝塚らしさと自身の解釈を芝居に落とし込む作業を、緻密に確実に行った縣くんの役作りの深さ故です。半端な役作りのせいでのブレではなく、全力で飛び込むからこその変化。お役の密な掘り下げ、それを表現する力が備わった今、是非幅広いお役にチャレンジしていただきたいと切に願います。

お次に朝美オスカルの変化ですが
私の見方としては朝美さんの芝居は基本的に初日から変わっていないと感じます。これはどの演目においても通ずることで、お稽古期間が短かった「海辺のストルーエンセ」でもベースの芝居は変わらず、しかし「芝居の受け方」は日々変化している印象でした。
朝美さんご自身がどこまで意識されているかはわかりませんが、役の軸は絶対に動かすことなく、人との気持ちのやり取りの部分だけは変化する。この芝居の取り方が大変好みです。
個人的見解ですが二、三か月にわたる公演期間においていつ観ても同じクオリティの作品であることは大前提です。幕が上がれば初日でも千秋楽だろうと本番には変わりなく、一度きりの観劇でもその日が最高の状態であってほしいのです。その上で日々お役の時間を重ね、濃く深くなってゆく芝居が理想。これを朝美さんは現実のものにしています。

このようにご自身の中のオスカルの軸は持ったまま、そこに飛び込む縣アンドレを受け止める。お役として受け止めているのはアンドレですが、その腕に抱かれながらも出方を見てフィットするように寄り添う。一歩引き冷静さを保つことで、俯瞰し全体をコントロールすることのできる、そんな上級生らしい芝居の変化へんげ でした。

芝居の掛け合わせとは不思議なもので、魅了を何倍にも、いえ無限大に広げてくれます。
感情で役を作り、冷静さを忘れず広い視野で芝居をする朝美絢
噛み砕いた解釈で役を作り、感情をありのまま芝居にのせる縣千
それぞれの芝居が絡み合う時、また新たな人を惹きつける力が生まれるのではないでしょうか。
外箱公演で幾度も芝居を重ねてきたお二人が描く、契りの一夜。今までと異なる絡みを堪能させて頂きました。

脚本について


私は今宵一夜の場面が好きなあまりに、前後の急展開や全体的な話の運び方についても公演評を書くほど冷静にはなれません。ただ少なくとも初日に観た直後の感想は、「なんだかすごかった」
古典的な台詞回しに驚きつつも、今宵一夜では艶っぽさにオペラグラスを持つ手を震わせ。「死にました」には心底動揺し。しかしバスティーユでは自身も市民の一員になったようにのめり込み、オスカルの最期にはやりきれない切なさと美しい生き様に心を締め付けられた。そして牢獄では夢白アントワネットの取り戻した童心と王妃としての覚悟、愛する人の心を救うには命を見捨てるしかない彩風フェルゼンに自然と涙を流していた。

舞台は理屈で語れない。筋が通っているから感動するとは限らない。
だから、私は「ベルサイユのばら-フェルゼン編-」は面白かった!
もちろん理解できない場面も、説明の足りない部分もあります。それでも心がこんなにも動いたのは、雪組が、彩風さんが向き合い作り上げた舞台だったからだと思います。

と言いつつ、脚本の不親切さには少々引っかかるところもありました。私もド素人ながら現在進行形「人に読んでもらう文章」を書いている際に注意している点があります。それは「相手に伝わるように、わかりやすく」です。
話の流れや言葉選び、句読点のつけ方……あげればキリがありませんが、文章には読み手への思いやりを散りばめています。(そのつもりです)
このように考えている中、興行でこんな突飛な展開がありえるのか、考察の余白ではなく、ただ必要な説明を放棄しているのではないか。そう考えてしまいました。
しかし、舞台は理屈ではない
繰り返しになりますが、話が理解しやすいから面白くなるわけではない、心が動かされるから面白い。私は作品を心から楽しみ、新鮮な気持ちで何度も観て、思いを文字に起こす。十二分に味わっているのです。
それだけでいいのではないでしょうか。
高尚なことは言えません。時代と共に移りゆく歌劇の在り方、変わらなければいけない部分、その中でも変わらず引き継がれるもの。季節のグラデーションのような伝統に身を任せ、時に抗い、私は私の感じたことをありのままに書き留めたい。そんな思いをこめて、この記事を書きました。

彩風咲奈さまをはじめとする雪組の皆様、諸先生方、すべての方
本当に、本当に愛おしい時間をありがとうございました。
ありがとう、忘れないよ。

あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。
書くのが楽しい、きつすぎる二度と書かないもうボツだ!を繰り返していました。大好きな場面の今宵一夜語りでしたが、好きなあまりにまとまらず大変書きにくかったです。特に贔屓のことを書くとなると難しいものです。日々のレポのような感想はXのほうにあげていますので「@amatsu116 今宵一夜」で検索するといいんじゃないですかね。
もっとカジュアルに書くつもりでしたが、色々と、本当に色々と考えを巡らせているうちに、なんだか引き返せないところまでハマってしまいました。あ、でもラフに読んでください。そういうものですから。

公演評もどきについて、もう少しお話しましょうか。よくこの手の意見では、初見の人には~、長年のファンなら~、と対象者をカテゴライズして語られがちです。でも、それを語るあなたの気持ちってどこにあるのでしょうか。様々な客層を想定する親切は結構ですが、観劇後の生まれたての感想はあなただけのものです。それを何かに当てはめることは必要ないのです。わからなかった、面白かった、それよりも贔屓の顔がいい!なんだっていい。良いも悪いも、ありのままに自分の言葉で語りましょう。そうしていくうちに、必ずあなただけの作品の感想が見えてきます。
ただし、どんな公演も、誰かの愛する作品、誰かの大事な一公演であることは忘れないように。公開するならば、受け手のことを考えて言葉は選びましょう。

千秋楽までには書くぞ!と意気込んでギリギリ滑り込めたでしょうか。
→全くもって間に合いませんでした。一週間経ったよ。
退団公演なので、さきあさのお役のお話をしたかったのですが、文章にするほどの記憶力がなく、当時からもっと書いておけばよかったと後悔しています。自分の感想を文章にするって愛の確認作業のようなものです。言語化することで、今の想いの改めて認識できる。そして、ぼんやりと抱えた宙に浮いたままの感情を知ることもできる。あとから読み返すことで記憶が蘇り何度だって楽しめる。この記事もよい思い出になるといいな。
そんなわけで、これからも楽しみながらマイペースに書いていきます。どうぞよろしくお願いします。よかったら反応いただけると嬉しいです。(これ、定型的な挨拶ではなく本当に嬉しいものです……!)

読んでいただきありがとうございました。

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